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無題 | |
釜山カルメギ | 8/12(木) 15:15:27 No.20100902182056 返信 削除 |
けいさんへ。 そうなんです。ブログは業務用なんです。 個人的には面倒くさがり屋なので、ブログをするのは嫌いで、もししてしまったら、愚痴ばかりになってしまうので(笑)また、仕事が終わったら削除したいのですが、先生に6ヶ月は保存するようにと言われてしまいました(><) 今、時間が有ったので、「日本人墓地」の記事を読みました。 存在を知っていたのですが、遠いので行ったことはありませんでした。 以前、オーストラリアに居た時に、西側にある「日本人墓地」へ行った事があります。確か、広島や鳥取出身の方が多かったです。 墓石の状態はあまりよくなかったです。 同じような感じですが、思うと悲しいです。 それにしても悪気は無くても墓石を階段とかに使っているのはなんとも言えず驚きました!びっくりです。 そこにも祖国へ帰れず眠っている人たちがいるんですね。 住んでしまうとなかなか観光に行く機会が無いので、とっても勉強になります。 釜山に来てから気になっているのは、光州方面です。 光州事件や、モッポで「モッポの母」と呼ばれた日本の方が 居たそうなので、いつか行ってみたいと思います。 それにしても、8月15日が近いので日本人としてはあまり居心地がよくない時期です(−−) |
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すみません | |
ドゥビ | 8/28(土) 11:31:52 No.20100830090531 返信 削除 |
大きなお世話かとも思ったのですが、せっかくの良サイトですので、疑問に思うことや、参考になりそうなことを、ちょっと書かせていただきます。生意気を申しましてすみません。 http://busan.nekonote.jp/korea/old/life/mov/nagune.html の「ナグネ」ですが、これについては、広告のご紹介なのでこのままでもいいのかもしれませんが、参考までに申し上げれば、優美館のほうは朝鮮語発声版で、明治座のほうは日本語発声版で同じ日に封切されたようです(『韓国映画全史』)。毎日新報ですので朝鮮語版の広告だったのかと思いますが、京城日報あたりではもしかしたら日本語版の広告が出ていたりするのかもしれません。分かりませんが。 1937年5月6日には日本でも公開され、好評だったようです。 http://busan.nekonote.jp/korea/old/life/music/ok.html この広告は昭和13年ですが、実質、朝鮮の大衆歌謡は1935年ころから黄金期とされることが多いです。蓄音器が多く広がり、大衆に新しい音楽を広めたという点では1926年の尹心悳の「死の賛美」からという感じでしょうか。金裕鎮と玄界灘で心中した人ですね。 大衆に大衆音楽が広がる時代が1926年ごろから、そして大衆音楽が黄金期を迎えるのが1935年ころから、という感じではないかと思われます。 お示しの広告に見える歌手もなじみのある歌手が多いです。金貞九、李蘭影、張世貞、南仁樹あたりは、のちに大御所といってよい存在になっていく歌手かと思います。 金貞九「涙にぬれる豆満江」、李蘭影「木浦の涙」、張世貞「連絡船が発つ」、南仁樹「哀愁の小夜曲」(釜山といえば「別れの釜山停車場」が有名でしょうか)などは、耳にされた方も多いのではないでしょうか。 のちには、映画『君と僕』(部分しかフィルムが残っていないようですが)の主題歌を歌うのも、張世貞と南仁樹でした。同映画では金貞九が「落花三千」という曲も歌っています。 広告に出ている「海の交響詩」「愛はいばらの道」は、それぞれに有名な曲ではないかと思います。 |
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有難うございます | |
ドゥビ | 8/24(火) 02:51:35 No.20100828160336 返信 削除 |
けいさま ご挨拶が遅れました。はじめまして。どうぞよろしくお願いいたします。いろいろと勉強になるサイトで有難く思っております。 アリランの件ですが、もちろん、全国に数々のアリラン、アリランというセリフが入るものを数えれば百数十種のアリランがあるともされ、歌詞の変種は数千に上るとも言われているようです。そこでいちおう、本調アリランと旧調アリランで区別して申し上げたのですが(この本調と旧調というものも実は結構あいまいな概念のように思います)、繰り返しになって恐縮ですが、現在よく知られている映画『アリラン』の主題歌でもあるアリランは、釜山が故郷であるという点が、失礼ながらどうも理解できません。 羅雲奎がアリランを導入したのは基本は故郷である会寧で聞いていたアリラン(これは普通の旧調アリランでしょう)であり、歌詞を彼がつけた、というのが羅雲奎の言ですが、二三の説はあるようです。どの説をとるにしても釜山が故郷、というのは初耳でどうもぴんとこないのです。 これまた繰り返しになりますが、釜山の朝鮮キネマ株式会社と京城の朝鮮キネマプロダクションは別物です。 前者は1924年に作られた会社で加藤小児科病院や高佐貫長などがお金を出して作ったものです。ここでは1925年までの2年間で4編の映画を作っています。『雲英伝』はご存じでしょうが、羅雲奎がエキストラとしてデビュー作となったものです。 その後、羅雲奎は尹白南プロダクションに行きます。京城の朝鮮キネマプロダクションは淀虎蔵がお金を出し、1926年から2年間で6編の作品を作ります。この中に『アリラン』が含まれているわけです。この会社が2番目に作った作品でした。団成社で封切されているものと存じ上げております。 前者の朝鮮キネマ株式会社と京城の朝鮮キネマプロダクションにはとくにこれといったつながりはなさそうです。あるいは、羅雲奎がアリランの脚本と音楽「アリラン」を構想したのが釜山であるということでしょうか。 また、羅雲奎のアリランは曲は「いろいろあるアリラン」を参考にしたものでもないと思われます。これは開化期からすでに採譜されており、歌詞はいろいろですが、曲そのものはある程度は知られていたものであると思われます。歌詞は不明としかいいようがないと思いますが…(羅雲奎は自分でつけたとしていますが)。 楽隊の紹介、有難うございました。1926年あたりの朝鮮の無声映画で用いられた楽器がどのようなものであったか、一度調べてみたいと思います。てっきりバイオリン演歌につられてしまって、バイオリンを中心に若干の楽器が付加される程度で考えていましたが、すでに民謡や大衆音楽が芽生え始めていたころでもあり、仰る通りもう少しにぎやかな編成だったのかもしれませんね。参考になりました。有難うございます。 |
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アリラン | |
ドゥビ | 8/23(月) 21:24:26 No.20100823232744 返信 削除 |
大変な情報量のサイトで、感服しています。心より敬意を表させていただくとともに、いろいろと勉強させていただければと思っております。 ちょっと気になった点を書いておきます。「アリラン」のところです。 http://busan.nekonote.jp/korea/old/life/mov/ariran.html 羅雲奎は釜山の朝鮮キネマ株式会社に入社して俳優になっていますが、映画『アリラン』は京城の朝鮮キネマプロダクションによって作られています。両社にたまたま羅雲奎がそれぞれ関わっているのは確かですが、それぞれ全く別の会社です。 アリランについては、お示しのアリラン(本調アリラン)の歌詞は確かに羅雲奎による部分が大きい(可能性が高い)ものと思われますが、このアリランの曲そのものは、羅雲奎以前からあったものです(旧調アリラン)。羅雲奎自身は江原道アリランぐらいしか京城では聞けず、自分が会寧時代に聞いていたメロディに歌詞を付けたと言っていますが、正確なところは分からないところがありそうです。 ともあれ、「アリランの歌は釜山が故郷なのです!」というのはちょっと行きすぎだと思いました。 あと、楽隊によって演奏を奏でると以下にあります。 http://busan.nekonote.jp/korea/book/eiga/ariran.html 想像するにバイオリンの演奏が基本でしょうから、そんなに大きな楽隊があったとは思えません。せいぜいバイオリンに若干の楽器が入るか入らないかといったところではないでしょうか。(これは想像ですが) |
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はじめまして | |
Morris. | 7/28(水) 10:57:55 No.20100812100004 返信 削除 |
はじめまして 神戸のMorris.と申します。 20年来の韓国フリークです(^_^;) 釜山大好きです。 今回7月15日に大阪からのパンスターフェリで釜山に到着したその日の夜、龍頭山公園界隈で酔って石段転げ落ちて、救急車で釜山大学病院に運び込まれ左眉の下8針縫いました。 治療費が高すぎたので、ソウル行きを断念して、金が尽きるまで釜山に居座ることにしました。(詳細は以下を(^_^;) http://www.orcaland.gr.jp/~morris/nikki/tnikki.htm こちらのサイトは時々覗いてましたが、これを機会に、じっくり見させて活用したいと思います。 今日の釜山は朝から大雨です。これから釜山市庁舎見学に行くつもりです。 これからも、よろしくお願いします。 |
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