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父の記憶 | ||
康 | 6/28(火) 14:21:26 No.20110903193346 返信 削除 | |
初めまして。 来月、釜山-鎮海へ旅行する準備の中で、このHPに辿りつきました。 今回の旅行の目的は、父を鎮海に連れて行くことです。戦前、戦中と、祖父母が経営していた商店の跡地を探す旅なのですが、手掛かりは父の幼少時の記憶だけという、なんとも頼りないものでした。 しかし、ここの貴重な写真や情報のおかげで、父の記憶が徐々に蘇り、およその場所を推定することもできたようです。 また、ハングルがまったく読めない私としましては、当地での交通や観光などの情報も、たいへんありがたいものでした。 まずはお礼まで。 |
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池田佐忠のご家族の方を探しております。 | |
チェヨンシル | 8/30(火) 11:23:19 No.20110831194056 返信 削除 |
けいさん 私は韓国の蔚山(ウルサン)放送の チェヨンシルと申します。 特集番組の制作の件で 池田佐忠のご家族の方を探しております。 申し連絡できる方法があれば助かります。 池田佐忠事業と人生とウルサンについてお聞きたいです。 |
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釜山第一商業の校長名 | |
天本孝久 | 8/25(木) 15:25:56 No.20110831110249 返信 削除 |
けいさん、ご無沙汰しております。私の知人から昭和18年職員録の校長名が違っている旨、指摘を受けました。とても懐かしがっておられました。 安麟太郎(誤) → 兼安麟太郎(正) 知人は、九徳会(同窓会)の会長で、昭和20年8月に4年生で繰上げ卒業(40期)となった方です。 昭和20年には、3月に4年修了で正式卒業(39期)、8月に4年在学中で繰上げ卒業(40期)、5月に3年在学中で卒業(41期)と三学年が卒業している由。(平成元年10月1日発行の九徳会会員名簿より) |
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釜山の想い出 | |||
芙蓉亭 | 7/26(火) 20:01:57 No.20110804163424 返信 削除 | ||
アンニョンハシ〜ンギョ(方言)、けいさん >道庁の近くの芙蓉洞にお住まいだったのでしょうか そうなんです。道を挟んだ隣が西大新洞。近くに名門釜山女子高校があったんですが、沙上?に移転し、その跡地は高級住宅(当時の)に埋め尽くされてしまいました。 そう、釜山女高の校舎を借りてたのか、あるいは別な建物だったか、わかりませんが、そこに朝鮮戦争以降に出来た独逸(ドイツ)病院があったらしく、そこで僕は産まれたそうです。 >剣道道場は日本時代は「武徳殿」と言われていましたが >韓国時代にも剣道場として使われたことがありますか? 近所に公園など子供が遊べる場所がまったくなかったもんで、道庁にはたまに遊びに行きました。剣道の稽古を外から覗き見した記憶があります。 >1979年6月の釜山税関の建物の解体をご覧になったのですね! いや、解体する予定で、文化的価値のある貴重なものなので反対する学者がいるというような記事を新聞で読んだことがあります。 海雲台のあの景観の秀麗な冬柏ソムの入口に朝鮮ビーチホテルを建てるって話があったときも、反対の声が多かったものの、軍事政権の前では、そういった良識は無力でした。 >1968年に廃止になった路面電車に乗ったことはありますか? 特に国民学校に入る前の小さい頃、よく乗りました。 母と一緒に水晶洞、佐川洞まで、それから、花見に東莱温泉?金井山?(終点)まで乗ったことがあります。 思い起こせば、60年代頃の釜山は、ほぼ戦前の町並みのまんまではなかったかと思います。 大新洞、芙蓉洞、宝水洞、富平洞・・・ほとんどが瓦葺きの和式家屋で(因みに我が家は二世帯長屋の半分でした)、通り沿いの商店も戦前からのものが多かったです。 富平洞にあった洗濯屋は屋号までそのまんま「白洋舎」(ハングル表記)でした。 道路で覆い被せられる前の宝水川(水源は九徳山)の風景は、川の両側に柳がどこまでもずらっと並び、その木陰で朝鮮将棋や碁に興じるアヤジたち・・・日本のどっかの地方の町の風景でしたね。 |
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釜山 | |
芙蓉亭 | 7/25(月) 14:34:17 No.20110726104649 返信 削除 |
はじめまして。 長年日本に住んでる釜山出身の韓国人ですが。今までネットで、戦前の釜山に関する資料を探してみたんですが、検索の仕方が下手なせいか、なかなかヒットしませんでした。 ところが、きょう、釜山の風景を検索したら、こんな素晴らしいサイトにヒットするとは!感激しております。 我が家は慶南道庁近くだったんですが、敷地内にあった瓦葺き屋根の尚武館(剣道道場)という建物が実に立派で、殊にその屋根の部分の繊細かつ整然たる様式美に子供ながら、いつも惚れ惚れと見とれていました。まだ残ってるんでしょうか。 それから、子供のぼくに一番衝撃的だった和式建物は、玩月洞(緑町)の遊廓でした。夏、仲間たちと一緒に松島海水浴場に向かって歩いて行く途中、初めて、その朱塗りの手摺りやら、それまで見たことのない、神秘的なムードの漂う二階建て?の異形な家並みに圧倒され、しばらく呆然とその家々を食い入るように眺めたものでした。自分が小4か小5くらいの頃だったから、おそらく1966か1967年だったと思います。1970年代までは、まだ少し、その建物が残っていたはずですが、さすが、今は全滅でしょう。 幼心に惜しいと思ったのは、あの素晴らしい釜山税関(建物)の解体です。交通の妨げになるとかで、当時の野蛮軍事政権下の道路工事に伴い、あっけなく破壊されました。 またお邪魔させて下さい。 |
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