釜山の想い出 
芙蓉亭 7/26(火) 20:01:57 No.20110804163424
アンニョンハシ〜ンギョ(方言)、けいさん

>道庁の近くの芙蓉洞にお住まいだったのでしょうか

そうなんです。道を挟んだ隣が西大新洞。近くに名門釜山女子高校があったんですが、沙上?に移転し、その跡地は高級住宅(当時の)に埋め尽くされてしまいました。
そう、釜山女高の校舎を借りてたのか、あるいは別な建物だったか、わかりませんが、そこに朝鮮戦争以降に出来た独逸(ドイツ)病院があったらしく、そこで僕は産まれたそうです。

 
>剣道道場は日本時代は「武徳殿」と言われていましたが
>韓国時代にも剣道場として使われたことがありますか?
 
近所に公園など子供が遊べる場所がまったくなかったもんで、道庁にはたまに遊びに行きました。剣道の稽古を外から覗き見した記憶があります。

>1979年6月の釜山税関の建物の解体をご覧になったのですね!

いや、解体する予定で、文化的価値のある貴重なものなので反対する学者がいるというような記事を新聞で読んだことがあります。
海雲台のあの景観の秀麗な冬柏ソムの入口に朝鮮ビーチホテルを建てるって話があったときも、反対の声が多かったものの、軍事政権の前では、そういった良識は無力でした。

>1968年に廃止になった路面電車に乗ったことはありますか?
 
特に国民学校に入る前の小さい頃、よく乗りました。
母と一緒に水晶洞、佐川洞まで、それから、花見に東莱温泉?金井山?(終点)まで乗ったことがあります。

思い起こせば、60年代頃の釜山は、ほぼ戦前の町並みのまんまではなかったかと思います。
大新洞、芙蓉洞、宝水洞、富平洞・・・ほとんどが瓦葺きの和式家屋で(因みに我が家は二世帯長屋の半分でした)、通り沿いの商店も戦前からのものが多かったです。
富平洞にあった洗濯屋は屋号までそのまんま「白洋舎」(ハングル表記)でした。

道路で覆い被せられる前の宝水川(水源は九徳山)の風景は、川の両側に柳がどこまでもずらっと並び、その木陰で朝鮮将棋や碁に興じるアヤジたち・・・日本のどっかの地方の町の風景でしたね。

1.  けい     7/28(木) 09:34:42 No.20110804163424-1
113,235バイト

芙蓉亭さま 貴重なお話ありがとうございます。

釜山女子高校は朝鮮戦争の時 国連軍病院として使われ、学校は
土城洞の女子寮で行われたと聞いています。ドイツの病院が入った
かもしれませんね
朝鮮戦争当時の芙蓉洞付近の航空写真があります。ご自宅が
写っていませんか?

検察庁庁舎として使われるまでの間は剣道場として使われていた
のでしょう。空白の時間を実際に覗いた話はありがたいです。

電車は東莱の温泉場が終点です。桜の名所だったので花見を楽しむ
人たちが多かったようです。

寶水川の辺は大きな柳の木がゆらいで木陰が気持ちよかったという
話しを聞いています。私が最初に釜山訪問した時は道路になった
後なので当時の様子を推測するだけです。


2.  芙蓉亭     7/30(土) 03:41:34 No.20110804163424-2
貴重な写真、ありがとうございます。
初め、少し戸惑ったんですが、道庁の道場を手掛かりに全体を把握することができました。道庁の左隣が富民国民学校(ぼくの母校)、写真の左にある広い敷地が釜山女高(国連軍病院)、そこから左へ200Mくらい?の所に釜山矯導所(刑務所)がありまして、大通りから囚人たちが廊下を歩いてる姿をよく見ました。左上が花郎国民学校。我が家は釜山女高から右へ200Mも離れてない所で、さすがピンポイントはできず、だいたいの範囲はわかりました。
寶水川が道路に覆われて、初めてそこに行ったときは、大ショックでした。
余談ですが、釜山大橋(影島タリ)の橋桁が開閉してた頃は、そのときのサイレンが我が家の方でも聞こえたので、その音が時刻の知らせでもありました。


3.  けい     7/30(土) 11:13:58 No.20110804163424-3
釜山大橋(影島タリ)のサイレンが芙蓉洞まで聞こえるのは
当時は自動車など騒音が少なく静かだったからでしょう
生活感覚のある余談のほうが記録に残らない情報で面白いです。

釜山の明治の頃は牧島(影島)の砲台から大砲を撃って時刻を
知らせていました。大正になるとサイレンに替わり、戦争が
始まるとサイレンは空襲警報専門になり時刻には使われなく
なりました。
60-70年代の釜山の正午の合図はサイレンですか?


4.  芙蓉亭     7/30(土) 15:39:23 No.20110804163424-4
>釜山大橋(影島タリ)のサイレンが芙蓉洞まで聞こえるのは
>当時は自動車など騒音が少なく静かだったからでしょう

なるほど。
 
影島大橋?釜山大橋?(70年代の正式名称はどっちだったんでしょ)といえば、自分の通ってた中学校が影島にあったので、よく歩いて渡ってました。影島も戦前の面影が色濃く残ってる街でしたね。船具屋やら、倉庫やら。因みに漁船は百%日本漁船の中古だったし。橋の両側のタモトには戦前の石畳がしっかり残っていて、それがチャガルチ市場までつながり、瓦葺き屋根の重厚な造りの商店が並び・・・まさに異空間でした。 

>60-70年代の釜山の正午の合図はサイレンですか?

サイレンはあくまで橋桁の開閉のためであり、開閉しなくなってからは、時刻知らせのサイレンなんてものはなかったように思います。60年代に開閉がなくなったはずですが、開閉シーンを小さいとき、見たかもわかりませんが、記憶にはありません。

ところで、60年代、日本のコロナにとって代わられるまで走ってた始発(シバル)タクシー(国産?)をご存知ですか。
軍用JEEPのような四角い車。毎年の夏、家族全員、それに乗って海雲台に行ってました。当時の海雲台って、海の家も少なく、避暑客も少なく、閑散としてたように思います。砂場近くに軍の部隊がある他に周辺にはほとんど何もない静かなところでした。 
帰りに初めて走る蒸気機関車に出くわし、その迫力とカッコよさに度肝を抜かれましたね。今思えば、釜山駅から海雲台まで汽車という手段もあったんですが、7人でたくさんの荷物、乗り換え・・・やっぱりタクシーですね。料金もそれほど高くなかったはずだし。 


5.  けい     8/2(火) 16:10:27 No.20110804163424-5
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1980年に赤い「釜山大橋」が完成して埠頭道路開通、
それ以後は名前を譲って「影島大橋」になっています。
現在は薄い灰色になって目立たなくなっています。

始発(シバル)タクシーの名前は知りませんでした。
60年代の写真がありますが・・・これですか?
出典:写真で見る釜山50年(1995年発行)

60-70年代の海雲台は米軍基地と極東ホテル・ゴルフ場くらい
ですね、東海南部線はけっこう後まで蒸気機関車が運用されて
いたようです。


6.  芙蓉亭     8/4(木) 16:34:24 No.20110804163424-6
>始発(シバル)タクシーの名前は知りませんでした。
>60年代の写真がありますが・・・これですか?

実は、ぼんやりした記憶しかなく、もっと四角くて、
安っぽい感じかなと思ってたんですが、意外と存在感ありますね。
シバル・タクシーのあとはコロナ(国内生産)の時代がずいぶん続いたはずですが、そのコロナが韓国から撤退し、フォード車に代わり、「コロナは力があってよかったよ」って話を運転手から聞いたことがあります。


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