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1.壹岐丸/對馬丸
(山陽鐵道聯絡船)
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明治38年に京城から草梁まで繋がった京釜鐵道と
下関を連絡するため 山陽汽船は三菱長崎造船所に
最新設備の新造船 壹岐丸(1,680t)と姉妹船の
對馬丸(1,679t)を注文しました。壱岐丸は明治38年9月11日就航
對馬丸は明治38年11月01日就航写真は壹岐丸です。
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連絡船ができたので旅行時間が短縮されました。
大阪-釜山 29時間余
大阪-京城 44時間余
東京-釜山 48時間余
東京-京城 60時間余
船内に日韓の税関吏が乗込んでいて、船内で
荷物検査や通関業務をするので 下船後
すぐ行動できる便利さがありました。郵便局も船内にあり、医者も常駐しているので
病人の世話や検疫も船内で行ないました。京釜鐵道時刻表と対照してお楽しみ下さい。
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運賃は各等ともに食事付きで下記の料金でした。
1等 12円 洋食
2等 7円
3等 3円50銭
写真は往復割引の広告
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写真は山陽鐵道株式会社釜山連絡
事務所の建物です。本館は木造2階で右の建物はレンガ
造りの倉庫です。
倉庫の右が連絡船桟橋です。
翌年 鐵道が国有化されると この建物は
帝国鉄道庁釜山営所となり、その後の
鉄道組織の変遷でいろいろ代わっています。
大正2年に釜山運輸事務所が移転した後
朝鮮郵船釜山支店 として使われました。
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大正4年の釜山日報の元旦特集を読んでいたら
この記事を見つけました。正月の初物特集で出初式や初荷の記事の中に
壹岐丸からの美人投身まで載っていました。昔の釜山の新聞を読む機会は少ないと思うので
ご紹介しておきます。記事の続き
壹岐丸は後継の関釜連絡船の景福丸が就航すると青函連絡船に回されました。さらに樺太の稚泊航路が開かれると冬季の就航の為 船首を延ばして
砕氷能力のある連絡船に改造され樺太航路で活躍しました。その後 北日本汽船に売却され名前も「樺太丸」に変わりました。
昭和20年 壊滅した青函連絡船に再び就航しました。
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