群山の歴史
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李氏朝鮮時代の群山付近の地図です。
上の川が錦江です。
真ん中付近に鎮浦と書いた場所があります。
そこの左側の山と河口の間の狭い場所が群山の
日本人居留地になった場所です。付近は沃溝県と呼ばれ、群山は寒村で漁船が
たまに泊まる場所でした。河川交通の拠点は錦江中流の江景でした。
江景は平壌、大邱と並んで朝鮮3大市場と
して繁盛していたのです。
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明治32年(1899)の群山各国居留地の地図です。
日本だけでは無く、清国、露西亜の商人も住む
外国人の居住専用区画でした。
詳細地図です。
海岸の本町通りと山手の明治通りの
間を領事館から1条通りが始まり九条通
までが 日本人町の中心街でした。
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明治44年(1911)の群山各国居留地の地図です。
併合直後の群山の町割です。
中央付近の山に領事館(理事庁)がありました。日韓併合になると急激に群山の価値は高まり
釜山に次ぐ船舶の出入りが多い第二の港になった
のです。税関付近は本町と呼ばれ 本町通りの周りは
大きな建物が増えていきました。
地図の下側と右側の区画整理の無い場所が韓人町と呼ばれ韓国人が住む場所でした
敗戦で日本人が引き上げると 本町を中心とする日本人町は機能しなくなりました。
代わりに韓国人町だった開福洞(下)や昌城洞(右)などが現在の中心街になっています。
釜山に次ぐ第二の港町だった群山は米の輸出先を失い衰退し、現在は人口30番以内の
韓国主要都市からも外れ 当時の活気はまったくありません。
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