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江景市場の歴史

江景の歴史

高麗の時代、李氏朝鮮時代などで各地方ごとに
露天商が月に数回市場が開かれていました。

朝鮮での経済活動の中心が市場での売買です。

湖南巡察使だった「倪圭志」が1830年ごろ記述
した「林園十六志」に朝鮮の1052個の市場の
詳細が紹介されています。

高麗時代から朝鮮初期の恩津県江景の市場は
金浦面西20里の所にあって毎月4と9の付く日
(5日間隔)に市場が開いたようです
江景の歴史

錦江と論山川の交差点ある江景は船を利用した
農産物や海産物の集積場として栄えたのです。

当時は道路が整備されていないので穀物など
重い品を多量に運ぶには水運だけが頼り
だったのです。
毎日 数100隻の船が出入りしていました。
江景の歴史

江景付近の市場順路地図(大正3年)です。

公州で1と6日に市が立ち 翌日の2と7日は敬天
3と8日は論山、4と9日に江景、5と0日は林川
 毎日 各々の町を廻って市が立つのです。

行商人が荷物を担いで市場を回って売る のが
朝鮮の市場の姿です。

商品によって 5日おきになったり10日毎とか
巡回コースがあるのです。

行商人は商品の運送が主です。販売は[客主]と
呼ばれる旅館経営者が行商人から手数料をとって
品を売ることが通常でした。

卸売業の初期段階の姿である旅館主が委託商品を
売る 朝鮮の伝統的な状態から本格的な問屋に
成長した商人が江景で増えて来たのです。

物資が集まる場所はお金や人も集まってきます。
江景の歴史 朝鮮の金融は高利貸しが主で月1割以上も多く
少ないところでも月5分から6分でした。
江景は特殊で 問屋業が台頭し薄利の商売を
していたので月1分で金融が廻っていました。

大きなレンガ造りの 韓一銀行江景支店
できたのも経済金融活動が活発だったからです。

開港前から日本人商人が江景に住み始め、
次第に増えてきました。
群山が開港すると米の輸出港である群山に
向けた水運はさらに活発化したのです。
江景の歴史

大韓帝国(明治)時代になると論山郡江景の
市場は2つになっています。

上市場と呼ばれる主に米、豆などの穀物などの
農産物を扱う 4の日毎に開かれた江景市場
これがメインです。

江景下市場は9の日でそれぞれ 干物・魚介など
雑貨などを中心した全商品を扱うようになりました
郵便局・穀物取引市場もできました。
江景の歴史

日韓併合になると鉄道や道路が整備されて
群山に直接 米などの農産物が運ばれる事が
増えてきました。

農産物の集積と河川水運で栄えた江景は
しだいに活気を失い代わりに群山が米の
取引など経済の中心になったのです。

それでも安価な水運は群山と江景の間で使われ
貨物や旅客の運送は続いていたのです。
江景の歴史 敗戦で日本人はすべての資産を残して、
手荷物だけで帰国する事になりました。
戦後の日本は海外からの米の輸入の
ほとんどを停止しました。

そのため米の出荷で栄えた群山は衰退し、
群山までの河川水運に頼った江景は
忘れられたのです。

昔 荷を満載した大小の船で混雑した
江景の現在の様子です。遊覧用ボートが
広い錦江に僅かに浮んでいるだけです。


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