女流飛行士 朴敬元を描いた
映画 「青燕」
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女流飛行士「朴敬元」 女流飛行士「朴敬元」は韓国の人で最初に
空を飛んだ女性です。

当時は日韓併合で朝鮮は日本の1地方でした。
ですから日本で最初に飛行機事故で亡くなった
女性になります。

日本では遭難碑が建てられ婦人飛行連盟などで
慰霊祭も50回忌まで行なわれました。遭難地の
熱海では独自に韓国式の庭園と遭難碑を作り祭って
います。

しかし 韓国での知名度は零に近い状態でした。

どうして?と言う 疑問が 韓国の文化に対する 興味になり、彼女の事を調べることで 少しだけ
韓国の文化風土が分かるような気がして来ました。

「釜山でお昼を」のページを作るきっかけになりました。

最初に空を飛んだ韓国女性となると英雄でも おかしくないし 色々な
絵本の題になっても良さそうだと考えることが 通常ではないでしょうか?

青燕 朴敬元の飛行と事故と慰霊祭の様子を書きました。

画像をクリックしてください。


[朴敬元をめぐる人々 ]
正田マリエ 金髪の女流飛行士
 正田マリエ
李貞喜 2番目の韓国人女性飛行士
 李貞喜
ブルース夫人 空の女王 ブルース夫人 ベルンシュタイン嬢 訪日に失敗したフランスの
女流飛行士 ベルンシュタイン嬢
張真英 映画「青燕」で朴敬元を演じた
女優「張真英」の訃報

韓国では歴史を書くとき、出来事の有無や事実の検証を優先するのではなく 
善悪のフィルターで判断したものだけを通過させるようです。

良い事は歴史として認めますが 悪い事と見ると記述しない方針のようなのです。

そして 彼女は日本で活躍したので悪い人だとの判断がされ 歴史の記述から
隠れてしまっているのです。

そのような 韓国文化のジレンマの中で 朴敬元の事が映画化される噂を聞きました。

映画のタイトルは「青燕」 


青燕 映画制作の噂を聞いてから数年、待っていた映画「青燕」がやっと
上映されると 釜山劇場の予告の看板出たのです。

画像をクリックしてください。


青燕2 釜山では12月29日より正月映画となりました。

実機を使った海外ロケやCGを使った特撮など意欲的な作品だと
噂が流れてきました。

青燕2

正月映画でしたが残念な事に人気が無く早めに上映終了になりました。

親日家で悪い人だから見ないようにしようとする運動がネットで
広がったためです。
映画を見る事はできませんでしたが色々な資料や感想などを頂きました。

青燕4 ソウルで1つだけロングランの映画館があったのです。

「青燕」を見る為にソウルを訪問したのですが・・・

青燕 DVDを買って やっと「青燕」を見る事が
できました。

いままで韓国の歴史から消えていた朴敬元を
出してくれたことに評価しています。

多数の人が映画を見て彼女が輝いていた
時代が あったことを知って欲しいのです。
映画は創作なので当然ですが事実とは異なり、恋人との恋愛をベースに
しています。恋人がテロリストと交友があったとして拷問で殺されて
それで自棄になり事故死するようなニュアンスで描いています。

日本女性代表として、満州までの最初の飛行を行う事をみんなが応援していて
祝福された出発だったけど不幸な事故が起きたのですが、それは表面には出て
来ません。

気になった事はクライマックスシーンで無線を多用して臨場感を出そうとしている事です。
そもそも彼女の機体に無線は積んでいません。
仮に積んであったとしても悪天候だと操縦だけでも大変で、無線で基地と交信は不可能に近い
ことです。

当時の無線機は真空管方式でかなり重く60-70kgあります。
しかも音声での無線機器は無く、トンツーのモールス信号を電鍵操作で通信します。。
エンジンの振動で機体がブルブル震える中でバリコンと呼ばれる可変蓄電器で基地局との
周波数を同調セットするのもかなり困難な作業です。
単座の飛行機でこのような通信作業の例は少数です。
第二次大戦当時でも複座以上の飛行機で電信員と呼ばれる専門搭乗員が無線機器の
操作を行うのが通常でした。

当時の関係者が心配したのは、時計を見ながら到着の連絡が来ないことです。
到着予定時刻を過ぎると不安は拡大していきます。
 燃料搭載量で飛行できる時間は決まっているので、その時間までに到着の連絡が来ないのは
事故を意味します。
 不時着で無事であって欲しい・・軽微な事故であって欲しい・・
翌日の朝になって捜索を始めるまでは祈るだけで消息はまったく分からないのが当時の状況でした。

空への情熱をもっと強く出して欲しかったのですが 映画への観客受けをねらって
恋愛をいれたのでしょう。
DVDなので気にいらない所は飛ばし、無視して純粋に彼女の飛行への情熱に
賛同して涙を流し感動することにしました。

私が映画を作るなら女性が空を飛ぶ情熱を理解しない戦前の社会風土をどのように
乗り越える事ができたか苦労を克服して行くサクセスストリーで前半を流します。

後半で台頭する軍部による空の規制、軍部との妥協を何処までするか?
むしろ軍部の考えている事の先回りをして、空を翔るための 環境作りを必死になって
行動した様子を描き、ロマンスをからめて「愛そして幸せな家庭」と「空への情熱」の
どちらを選ぶかの葛藤を描き、空を選んだとき悲劇も同時に選んだ事に・・・・・・
死を目の前にしたとき空を選んだ事に満足した微笑で前に進む

朴敬元はインタヴューでわが国の女流飛行士は何故伸びないのか。
として 下記の3点を挙げています。

1.費用の問題
2.職が得られない事
3.社会の理解が乏しく、女流の存在を認めない事

繰り返しますが 映画の内容には多少の不満があります
でも この映画が作られたことで歴史から消えていた朴敬元に 視線が向けられたことを
高く評価し、推薦しています。

ですから 日本上映の時 パンフレットを友人達に配り、映画を紹介して欲しいと新聞社に
求められたので推薦文を書いて協力しました。

映画の背景にある、昭和初期に女性飛行士が多数 現れて、彼女らが大空を駆けた時代が
ありました。


女性飛行士雑感。(おまけ=蛇足)

大正から昭和の始めまでモダンガール(モガ)やモダンボーイ(モボ)と 称するファッションの
先端を行く人達が注目を集めました。
明るく前向きな姿勢の人達が賞賛される時代でした。

各国からも女性飛行士が次々来日、飛行の失敗もありましたが 女性の挑戦の姿勢にを好意的な
意見を当時の新聞見出しで見る事が できます。
広い分野で女性が登場する自由な雰囲気の中で女性飛行士も 次々生まれました。
その時期に 朴敬元李貞喜も連続して飛行士になりました。

満洲事変・支那事変など戦局が拡大して行くとき 軍の発言が強くなって来ました。

女性の飛行 訓練は資源の無駄であるとして中止、そして飛行禁止の方向に政策を進める方向に
軍部は考えたようです。 だから3人目の韓国人女性飛行士は生まれなかったようです。

「軍の発言が強くなる=女性の飛行制限を仕方ない」と思ったのは 勘違いだったことが
戦争に負けて日本は始めて分かったのではないでしょうか?

日米が開戦したとき 日本は女性など飛行免許を取り上げる方向に向かい
米国は女性の飛行士の大幅な募集を始めたのです。

男達を多めに戦場に出せるように飛行機工場から基地までの 搬送は女性に任せる為でした。
戦闘機や爆撃機の飛行訓練を女性向けに始めました。

荒っぽい戦闘に向けた操縦方法を男性には教え、女性操縦士には飛行機を安全、正確に
工場から基地まで届ける搬送業務を重視した操縦を求めたのです。

日本でも女性飛行士が搬送業務をしたいと軍に提案したことは在りました。
女性が軍用機を操縦して事故にあったとき女性を軍務につけていることが世間に知られると
恥だからと説明して軍は女性の軍用機搬送飛行を断ったようです。

飛行機を工場から受領して基地に運ぶのは軍人の仕事です。

戦争を有利にするための手段として軍に女性飛行士を大量登用した米国と軍務に女性をつける
ことを恥だとしてできなかった日本では、勝負は決まっています。

日本は学徒動員は負けそうになってから始めたのですが、
米国は開戦と同時に学徒動員をするのです。

日本は大学生にひとりの歩兵として銃を取ることを求めました。
米国は 動員した大学生に毎日数隻のペースでできあがってくる輸送船の船長としての
速成コースを 受けるように求めたのです。本当の船乗りは軍艦に乗せるためです。

米国は飛行機工場に女性を大量投入するのも開戦と同時です。
日本では敗色が濃くなってからの動員です。

米国は男達を戦場に出す為に 女性を訓練して引き次いだのです。
日本は工場の熟練工員が徴兵されて いなくなってから あわてて女学生を大量
動因して飛行機を作るようにしました。作れるようになるまで時間がかかります。

工場が爆撃を受ける時期になってから そのようなことをしても手遅れです。

女性と飛行機の事を簡単に調べただけですが日本は戦争する気持ちがほんとに あったの?と
疑りたくなる事がいろいろ出てきます。


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