曾祖父・古川義雄と朝鮮での暮らし


◆自己紹介

阪東峻一。1982年福岡市出身。


◆曾祖父の福岡と満洲時代

 全羅南道で警察官をしていた曾祖父・古川義雄(18941955)は、母の母の父に当たります。

 1894年に、糸島市二丈町上深江の農業、古川寅太郎(18721947)とシノ(18771960)の長男として出生。学歴等は不明ですが、旧制中学や実業学校に行った話は聞いていません。


 最初は満洲に渡ります。当時の「満州」は、満州国(1932年建国)と違い、関東州(旅順と大連地域)と満鉄付属地のことです。渡満年と勤務地は不明ですが、警察官として勤務したそうです。関東都督府の警察官採用規則では、21歳以上とされていました。そのため、1915年以降に行ったのではないでしょうか。

 『関東庁統計書 第15』(1920年)によると、警察官は、1915年末1272人で、16年末1376人、17年末1426人、18年末1663人、19年末には1843人に増加。曾祖父は、警察官の採用が多く、発展著しい満洲に人生の活路を見出そうとしたのではないでしょうか?


 また曾祖父が、警察官という公務員になり、縁も所縁もない外地・満洲に行った理由として、叔父叔母(父親・寅太郎の弟と妹ら)の存在があります。

 まず、叔父の鉄之助(1883〜?死亡時の戸籍が手元になく死亡年不明)は、専売局に入り、公務員になっています。

 加えて、叔母のシカ(18811942)は、糸島市二丈町福吉の川上家(義雄の実母シノの実家。両家は娘を嫁がせる親密な関係だったよう)に嫁ぎました。夫・岩雄(18801943)の職業は分かりませんが、1906年に本籍地で長男が生まれた後、191012年にハワイ・ホノルルで次男と三女が誕生。その後、16年に本籍地で三女が死亡しています。1910年前後の数年間、ハワイ移民として渡ったのでしょう。

 さらに、叔父の光丸(18851965)は眼科医になり、渡満しました。『日本医籍録 昭和9年版 九州版』(医事時論社、1934年)によると、1909年に国家医学会講習を修了し、医師免許取得。同年、東京市赤坂区の保利眼科に入り、10年に京大眼科講習を修了、11年に郷里の一貴山村(現在の糸島市二丈町)に開業。16年に満鉄医員として鉄嶺と鞍山の医院に勤務。28年に前原町に開業とあります。

 以上のような、叔父叔母の職業や生活に大きな影響を受け、公務員になることや、外地に出ようとしたのではないかと推察されます。


◆曾祖父の朝鮮時代

 曾祖父は、1921年に糸島市二丈町深江の商家出身・松崎ヨネ(19021969)と結婚します。松崎家は、旧唐津街道深江宿の比較的大きな商家で、結婚する前には、東京のお屋敷に花嫁修業にしばらく住み込みでいっていたそうです。そこで料理などを覚えたそうです。(お雑煮に関しては後述)

 結婚はお見合いです。どういう関係でお見合いしたのかは分かりません。結婚に際して、曾祖父は勤務地を満洲から朝鮮に変更したそうです。特に福岡に近い、全羅南道を選んだとのことです。ですので、満州にいたのは、最も早い場合で1915年から21年までの5年程度ではなかったのでしょうか。

 また、1920年代の朝鮮では、文化政治となり、警察官が増員されました。『朝鮮総督府統計年報』の各年によれば、警察官の数は、1919年末15392人、20年末18376人、21年末20750人、22年末20771人となっています。曾祖父もそうした時流に乗り、異動願いを出したのではないでしょうか。


 全羅南道での勤務地は、戸籍による子供の出生地から分かります。

1922年、長女、順天郡住厳面で出生、同地で早世。住厳面駐在所か?。

1924年、次女、順天郡順天面で出生。順天署か?。

1927年、三女、長城郡長城面で出生。長城署か?。

1929年、四女、同上。

1931年、五女、光州郡光州面で出生。光州署か?。

1933年、長男、麗水郡麗水面で出生。麗水署か?。

1934年、長男、長興郡長興面で死亡。長興署か?。

1935年、六女、同上地で出生。


 加えて、警察官の職員録から、以下のことが判明しました。

 『朝鮮警察職員録』(朝鮮警察新聞社、1930年)には、長城署に「巡査 四五 古川義雄 福岡」と、『朝鮮総督府警察職員録』(朝鮮警察協会、1943年)には、羅州署に「巡査部長 五八 剣五錬士 古川義雄 福岡」と、それぞれ名前を確認できました。

 長城署は戸籍とも一致します。数字は「月俸」を示し、当時の給与が分かります。これに加えて諸手当もあったことでしょう。

 曾祖父は「剣道が上手だった」と、祖母から聞いています。「剣五」は剣道五段を意味し、「錬士」とは、武道の称号の第三位で、「範士」、「教士」に次ぐもののようです。

 1943年の職員録では、朝鮮人警察官の名前が日本風になっており、創始改名が進んでいたことが分かります。

 1922年から35年の足取りは終えますが、それ以降は43年の羅州署以外はよく分かりません。以上が、戸籍や書籍などからの情報です。


◆祖母からの話

 以下は、祖母ミツエ(19242003)からの思い出話です。

 祖母は次女でした。順天では、自宅ではなく、病院で生まれたそうです。病院での出産に関しては、長女が生まれて二日後に死亡したので、両親が産後の健康や衛生のことを考えて、病院出産を選んだそうです。当時は珍しかった病院出産を、祖母は自慢していました。戸籍には、「順天郡順天面長泉里207番地で出生」とあります。順天の街地図があれば、病院名も分かるかもしれません。

 その後は転勤をたくさんしたそうです。数年に一回あったとのことでしたが、戸籍の通りです。

 街の名前では、「光州におった。長興にも住んどった」などと言っておりました。エピソード的な話では、「隣のガチョウエンのチャンコロから、卵をよくもらった」と話しておりました。当時、卵は贅沢品だったので覚えていたのでしょう。朝鮮に住んでいた中国人のことだと思いますが、交流があったようです。しかし、その他の朝鮮人の知り合いや友人など、一切名前を聞いたことはありません。警察官は官舎に住み、近所付き合いも日本人ばかりで、朝鮮人とは交流がなかったようです。学校も同様です。

 私の母親が作るお雑煮は、関東風です。昆布とかつお節でだしをとり、シイタケ・小松菜・鶏肉を入れます。この調理法は先述した、曾祖母ヨネが、結婚前に東京で花嫁修業をして収得したためだそうです。曾祖母、祖母、母親と、女性を通して現在に伝わっています。しかし、朝鮮風の料理や味付けなどは、母親には一切伝わっていません。祖母がそうした料理を作っていたのを見たこともありません。つまり、朝鮮での生活を通して、新たな食材や味付けが家庭の食事に加えられることはなく、日本風の食事をしていたのでしょう。

 家には、お手伝いさんもいたそうです。植民地に行った日本人は、本土より良い生活が出来たとは一般的に言いますが、その通りのようです。祖母たちも、経済的にも恵まれた比較的豊かな生活をしていたそうです。

 また、福岡の実家に帰省する事も数回あり、麗水から船に乗ったそうです。朝鮮に渡るも、上深江の実家との交流はあったそうです。慶全線が、全羅南道と慶尚南道がつながるのは戦後(1968年)のことで、日本との行き来で、釜山を利用したことはなく、麗水だったそうです。1930年に川崎汽船が「関麗連絡航路」を就航させており、同汽船を利用したのではないでしょうか。

 曾祖父は無線機のようなものを常に携帯していて、深夜でも事件事故があると、家から飛び出していったそうです。光州では1929年に「光州学生事件」が発生。混乱は各地に広がり多数の逮捕者が出ています。戸籍によれば、曾祖父は1931年当時、光州にいたようです。混乱が完全に収まることなく、まだ緊迫した情勢下の中で、勤務に当たっていたことでしょう。

 子供は女ばかりでしたが、待望の長男が1933年に生まれます。9歳年上の祖母はおんぶをして、子守をよくしていたそうです。しかし、1歳で亡くなりました。遺骨は引き揚げの際に持ち帰り、いまも福岡のお墓に入っています。

 祖母は、女学校(学校名不明)を卒業し、戦時中は教員が出征して減ったので、小学校の代用教員のようなことをしていたそうです。

 引き揚げは、麗水からしたそうです。曾祖父から「お前たちは先に帰れ」と言われ、母と子供5人で、9月には上深江の実家に移ったそうです。警察官の曾祖父は、朝鮮に留まり、引継ぎ事務などをして、冬に帰国したそうです。


 戦後、曾祖父は前原郵便局の事務員となり、前原に借家住まいをします。祖母も結婚し、1950年に私の母親はその借家で生まれたそうです。その後は姪浜に引っ越し、曾祖父は釣り(長垂海岸)などをして悠々自適な暮らしを送り、1955年に死んでいます。

 曾祖父が残した不動産などの財産は、上深江の山林程度です。戦後の引き揚げで全てを失い、インフレで貨幣価値もほぼ0。戦後は郵便局員として働きますが、家を建てたり、土地を買ったりするまでの財産は築けなかったようです。

 曾祖父母は、とても仲が良かったそうです。喧嘩をした姿は一度も見たことがないそうです。曾祖母は「お父さん、お父さん」と、曾祖父を慕っていたそうです。結婚後はたくさんの子供に恵まれました。新たな土地・朝鮮で、ゼロからの人生を送ろうとしたのではないでしょうか。

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