■はじめに
戦前、自治体などの依頼によって、その地域の名所、風俗、産業などを織り込み、地域のPRまたは地域の人が郷土の歌謡として、歌ったり踊ったりできる「新民謡」や「新小唄」などと呼ばれる地方歌(ご当地ソング)レコードが数多く制作されていました。
昭和20年までは、外地の朝鮮も日本の「地方」であったため、内地と同じように地方歌のレコードが作られています。その曲名を大まかに把握するため、戦前の2大レコード会社の日本コロムビアと日本ビクターが年度別に発行していた「邦楽総目録」(販促目的でレコード会社が製作したカタログ)と、歌謡曲資料本『昭和流行歌総覧(戦前・戦中編)』(加藤正義・福田俊二編)などの資料から曲情報を抽出し、調査・研究の「叩き台」にしようと作成したのが、次の2社による一覧表です。
なお、上記2社以外に朝鮮に営業拠点を置いていたポリドール、テイチク、タイヘイ他各社からも地方歌レコードが作られていた可能性があります。また、地方歌はレコード会社にも記録がない委託盤が多く、目録などのカタログに掲載されないケースがあることを考え合わせると、作られた地方歌の数は一覧表よりも格段に多くなると思われます。
■曲の種類
曲目については、『京城行進曲』など都市名が入っている地方歌や、朝鮮の名所をテーマにした『金剛山小唄』、『朝鮮音頭』、『伸びゆく朝鮮』など朝鮮全体をテーマにしている歌が見られます。このほか特殊ですが、『京城帝国大学予科校歌』、『朝鮮神宮奉賛唱歌』もあります。校歌や団体歌、企業の社歌などは、内地では数多く作られています。
在鮮の新聞社が一般募集した歌が見受けられますが、こうした部分に地方歌の性格がよく表れていると思います。『羅津音頭』のように、羅津開港記念として地元の商工会が懸賞募集した歌もあります。
なお、大正時代から流行した「鴨緑江節」「白頭山節」「国境警備の唄」などの俗謡は、レコードのために制作された歌ではないので対象外としました。
『青いチョコリ』『アリランブルース』など朝鮮に題材を求めた内地盤の流行歌も、歌の性格が少し違うので含めませんでした。
■発売年代
レコードの発売年はレコード番号でおおむね特定できますが、朝鮮では昭和6年から11年までに集中しています。これは「新民謡」のレコードが、内地各地で昭和5~6年頃から多く登場してきたことと一致しています。中でも、昭和8年にビクターから発売された『東京音頭』(西條八十作詞、中山晋平作曲、小唄勝太郎・三島一声歌唱)は、前年に東京のローカル新民謡として発売の『丸の内音頭』の歌詞を改作した曲でしたが、爆発的にヒットしています。
昭和12年頃から曲が減少するのは、盧溝橋事件(昭和12年7月)以降、国内の戦時体制化が進み、盆踊りなどのイベントに適した音頭や民謡調が多い「新民謡」が、歌うこと自体困難になってきたからだと推測されます。
なお、表に同じレコード番号に異なった曲が入っているのは、レコードが両面吹き込みであるためです。
■購買(活用)対象
戦前でも昭和期になると、京城には内地のレコード会社各社が支店など自社の営業拠点を設置しました。レコード会社では、現地の朝鮮人を対象に販売する朝鮮譜(朝鮮語レコード)のほか、朝鮮に居住する日本人(内地人)向けに内地盤の新譜も発売していました。
在鮮の日本人は終戦時で約100万人といわれています。地方歌、とくに「新民謡」は、全鮮各都市の内地人町に住んでいた日本人の間で、盆踊りなどの夏祭りや、学校の運動会などの地域イベントで歌われ、聴かれていたのではないでしょうか。
こうした地方歌レコードは、京城では観光客の土産物としても販売されていたようで、宮塚利雄著『アリランの誕生』(77頁)によると、人参製品や陶磁器、松の実などの特産品にまじって、『京城小唄』『金剛山小唄』『妓生小唄』『国境警備の唄』『白頭山節』のレコードも売られていたそうです。
■歌になった都市
曲名には、釜山、大邱、木浦、大田、温陽、仁川、京城、平壌、元山、咸興、城津、羅津の地名が見られ、全鮮の主要都市で幅広く歌が作られていたことがわかります。
地名で共通するのは、日本人(内地人)が多く居住していた都市だということです。
大都市の京城が最も多いのは当然ですが、平壌、元山、大邱といった都市の曲も2社からそれぞれ作られています。この中で異色なのは、温泉地として知られた温陽があることです。
(平成24年5月6日稿)
ふろあ
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