fSvjXcAa9J3OA
Home > 投稿  > ふろあ (戦前の朝鮮流行歌レコード)

『連絡船은떠난다』

(直訳:連絡船は去って行く)

(オーケー1959/張世貞) 

SPレコード

往年の韓国人気女性歌手・張世貞のデビュー盤が、日本統治時代の昭和12年に、オーケーレコードから発売された『連絡船은떠난다』(写真)です。

 レコードに針を落とすと、まず、ピアノによる波の音の表現と銅鑼の音が聴こえ、哀調のある前奏のあと、張世貞の切々とした歌声が流れてきます。当時の張は17歳。甘い艶のある高音が特徴の歌手ですが、デビュー盤らしくその歌唱は初々しい印象を受けます。

張世貞は、オーケーの可憐な歌姫として「流行歌」のジャンルで活躍。『駅馬車』『断髪嶺』など数々のヒット曲を残していますが、中でも『連絡船은떠난다』は大ヒットとなり、当時、テイチク資本下であったオーケーでは最高売上を記録したといわれています。

レーベルを見ると、詩は朴英鎬、作・編曲は金松奎とあります。金松奎とは、オーケーで朴是春、孫牧人とともに大きな足跡を残した作曲家・金海松のことで、歌い手としても吹き込みがあります。張世貞の哀愁ある歌唱もさることながら、金海松のメロディやアレンジも素晴らしいと思います。

戦後の昭和26年になって、テイチクでは菅原都々子の歌唱で『連絡船은떠난다』を、『連絡船の唄』(写真)の邦題でリメイクし、日本でもヒットしました。 SPレコード

レーベルには、作詩が大高ひさを、作曲は金山松夫となっています。大高ひさをはテイチク専属の作詞家で、『君忘れじのブルース』『江の島悲歌』『カスバの女』などの代表作があります。金山松夫は「金海松」のことを指しています。

大高ひさをによると、『連絡船の唄』の歌詞は朴英鎬による原詩の翻訳ではなく、大高が妻に約半月がかりで元歌(『連絡船은떠난다』)をそっくり覚えてもらい、それを妻に何度も歌ってもらいながら、元歌の朝鮮語に最も近い発音の日本語を選んで「作詩」したといいます。

「独特の哀愁にみちた韓国メロディのいわば音訳?という離れ技をやってみた訳です」(なつメロ愛好会会報『なつメロ』第36号、昭和50年3月)と、大高は当時を振り返っていますが、戦前に発売されたオーケーレコードの朝鮮盤音源が、かつての親会社であったテイチクに残されていたからこそ出来た芸当といえます。

さて、テイチクから『連絡船の唄』が発売された前年の昭和25年(1950年)6月、朝鮮動乱(朝鮮戦争)で北朝鮮軍は38度線を突破して南下し、ソウル(京城)を占領しました。その際に、作曲者の金海松ら文化人は北朝鮮に連行されたといわれています。

SPレコード 独立後の韓国政府は反日政策の一環として、日本統治時代の流行歌などを「倭色歌謡」として、歌うことを禁じました。同じように、韓国から北朝鮮に移った「越北作家」が手掛けた歌も反共スローガンの下、禁止歌謡にしました(現在は解禁されています)。

こうした経緯もあってか、昭和43年に張世貞が初めて韓国語で日本録音したアルバムが日本ビクターから発売されましたが、アルバムの歌詞カードには、『連絡船은떠난다』の作詞・作曲者名には、李鳳龍(歌手・李蘭影の実兄で、金海松の義兄でした)が記され、金海松の名前はありません。

このアルバムは、張世貞の持歌のほか李蘭影、白蘭児、李花子の戦前ヒット12曲を、張の歌唱によりステレオ録音で収録したもので、ライナーノーツは、戦前、テイチクのディレクターだった茂木大輔が書いています。茂木は、オーケーレコードの企画会議や吹き込みの立ち会いで京城に度々足を運んでいる人物。そうした縁で戦後も韓国の音楽人との交流があり、関係者からは「オーケーレコードの生き字引」といわれていたそうです。

「これらの歌を歌える歌手は張世貞をおいて他にはなく、また彼女自身も今は無き友人たちの歌を感慨こめて見事に表現してくれました」と、茂木大輔はライナーノーツの中で張に賛辞を贈っています。当時を知る関係者ならではの言葉だと思われ、私は読んでいて胸が熱くなりました。

SPレコード

(平成25年10月14日稿)

ふろあ


ふろあ (戦前の朝鮮流行歌レコード)
Home . 釜山旅行の基本情報 . 人物 . 歴史 . 乗り物 . 交通史 . 名所・旧跡 . 釜山の街角風景
. 街角風景2 . 釜山の街角今昔 . 街角今昔2 . 食べた物 . 昔の生活と文化 . 戦前の絵葉書