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釜山清国居留地

居留地とは政府が認めた地域で外国人が居住し、交易などを営むことができる 限定された場所である
居留地内では居住している外国人には領事裁判権を含む高度な自治が認められていた。

日本の江戸時代の貿易は、長崎の出島内にオランダ人のみ、周辺には清国人、対馬が
釜山にある日本人居留地=草梁和館で朝鮮と繋がり、薩摩が琉球を通じた間接貿易で
清国や東南アジアと交易するだけの限定された交易であった。

明治の開港で、長崎、横浜,神戸,大坂,東京に外国人居留地ができた。
多くの国々との交易が始まったが列強に押され裁判権のない不平等条約であった。

日清戦争勝利と法治国家を目指す国内法の整備で列強との条約改正交渉が進んだ。
明治27年(1894)7月の 日英通商航海条約での裁判権の回復後、同年11月米国、 同年12月イタリアなど
各国との 条約改正交渉が進み日本国内の居留地は消えることになった。

朝鮮では室町時代から釜山に日本人居留地として倭館が存在した。
朝鮮との交渉や交易は対馬府中藩が日本を代表して倭館で行っていたが明治になり、 朝鮮が開港すると
外交権が対馬から外務省に移管された。

豊臣秀吉の朝鮮侵攻後の日本への警戒から市街地から離れ、虎や豹が時々出没する 僻地に
朝鮮政府は草梁和館を造った。

明治10年(1877)鎖国であった朝鮮の開港で釜山の草梁和館は名称を日本人専管居住地に 代わった。
他の外国人居留地は市街地と日本人居留地の中間付近に設定された。

英国とロシアは展望が良く攻めにくい山手に領事館を作ることにした。
清国居留地は各国の中で最も市街地に近い平野に設定された。

釜山の地図では当時の呼称である支那居留地と記されてる
明治36年発行地図の一部

朝鮮内の釜山以外の各国居留地は元山、清津、鎮南浦、仁川、木浦、郡山、馬山であった。

馬山の各国居留地を見るとオーストラリアハンガリー帝国まで割り当てがあるのが興味深い。
ロシアは日露戦争の前、馬山居留地外に極東艦隊の停泊地と軍地基地を求めて広い敷地に
クイを無断で打って確保を図り英国や日本と対立したこともある。


列強に各地を侵食された清国は居留地の脅威と旨味を知っている。
清国は釜山、仁川、元山に清国人居留地を作った。



清国が朝鮮に居留地を置いたということは 中国が列強に沿岸都市を 支配された歴史を理解した上で
朝鮮で列強や日本と 対抗しながら利権を確保したいとする意思の表れなのだ。

それらは 韓国併合で清国居留地は消え、行政区は草梁町になったが通称支那町と呼ばれた。
華僑が多いので領事館は存続し、清国崩壊と中華民国誕生によって中華民国領事館に代わった。

現在の釜山の玄関である釜山駅や国際旅客ターミナル付近の正面が中華街であり、 高層ビルの林立する
釜山最大の商業地になる計画があるようだ。

国際旅客ターミナル内にある周辺開発予想図(2010年撮影)

釜山の中華街(旧清国居留地)が現在の釜山駅前にあることが清国人に先見の明があった証明に なるかもしれない。

(2006/11撮影)

明治43年(1910)の韓国併合で朝鮮半島全体が日本の外地になったので各国との居留地廃止 交渉が行われ、
数年後 各国居留地は消滅した。

歴史に弱い一部の韓国の人達は居留地廃止交渉がたいした努力もなしに行われたと感じて いるようだ。

日清・日露戦争勝利や日英同盟にバックアップされた日本の交渉力で行われたので併合後
数年で朝鮮半島内の居留地廃止交渉が終結できたのである。

勿論 無償ではない。英国とは上海租界の一部譲渡と交換で行われたし、
各国とも甘くは無く現金や他の 利権との交換など複雑で長い交渉の結果である。

韓国政府だけの努力では過酷な列強からの支配や領事裁判権からの回復は困難であった と思っている。

韓国併合がなかったとしたら戦後の植民地からの独立ブームまで各国居留地が存在してたかも しれない。
朝鮮半島全体が列強各国利権で細分化された状態で支配されていたと想像できる。

総論から各論に移り、釜山中華街の戦後史を眺めてみたい。

WW2終戦から朝鮮戦争当時は米兵向けの歓楽街でテキサス-ストリートと 呼ばれていた。
当時は英語の看板だけであったと聞いている。

朝鮮戦争が終わり、米軍が少なくなると賑わいも縮小する。釜山で最後の米軍基地であるハリヤ基地は
2006年に閉鎖された。

ブレジネフからゴルバチョフに代わりソ連からロシアに代わると国交がはじまりロシア人船員向けの店が増えた
現在でもロシア文字の看板の多い場所でエキゾチックな釜山を感じることができる。

(2003/04撮影)

日本人居留地が日本人町となり敗戦ですべて消滅したことと清国居留地に、多くの清国人が住み、
現在も中華街として賑わっている事と対比すると面白い。


(2008/05撮影)

仁川駅前の中華街入口、中華街の規模は釜山と桁違いに大きい。
中国と距離が近いのが最大の要因で付近では中国人の姿を多数見ることができる。

(2006/02撮影)

元山は現在北朝鮮の都市なので中華街の存在は確認できません。


2018年11月 釜山歴史探訪の会の例会で発表予定レジメをWEB用に編集したものです。
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