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傭船時代

 
明治38年に就航した、関釜連絡船の壹岐丸・對馬丸は 毎日 満席で荷物も満杯なのです。
とても全ての需要に応じる事はできませんでした。

梅ケ香丸

そこで明治40年国有化した関釜連絡船は民需だけ
ではなく軍用貨物の増加要求にも対応する為に
傭船契約した民間会社の船を関釜航路に投入する
ことにしました。

写真は快速船の梅ケ香丸


最初 明治40年に「會下山丸」(1,458トン)を雇い、翌年の41年に「薩摩丸」(1,946トン)も追加しました。

壹岐丸・對馬丸が点検で1隻が運休した時は隔日運航になったのですが 傭船が来てからは
毎日運航が普通になったのです。

関釜連絡船は夕方出港して翌朝到着の夜行便です。傭船が来たので明治41年から昼便も始めました。

国民の寄付金で海軍の戦時に使える補助艦艇を作る、義勇船制度があり、これで新造された快速船の
「さくら丸」と「梅ケ香丸」が 平時なので傭船として明治44年から関釜航路に就航しました。

博愛丸 写真は大正4年から関釜航路に就航した
日本郵船の「博愛丸」です。

釜山第一桟橋に停泊し、背景に影島の山が
釜山港の印象的な姿を現しています。

傭船たちは国鉄の関釜連絡船の陰に隠れて
就航時も目立つ事は無く、解傭の時も静かに
消えて行くだけです。関釜航路を支え、彼女らが
働いていた事は忘れていけないのです。



梅ケ香丸は大正元年9月23日、下関港に停泊中時化のため舷窓から海水が入り沈没。

博愛丸は明治31年に赤十字の病院船として就航し第一次大戦後、関釜航路に就きました。
大正11年に景福丸の就航で解傭されると北洋で蟹工船として働き、1945年米潜水艦の
雷撃で沈没しました。


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