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金剛丸/興安丸

 
明治38年に就航した壹岐丸・對馬丸から始まった下関と釜山を 結ぶ関釜連絡船は
旅客・貨物の増大に対応する為大型化していきました。

大型船では自然換気だけでは不可能なので完全空調の新造船を三菱重工長崎造船所に
発注しました。命名は朝鮮の2つの名勝名山の名前からです。

金剛丸シリーズは7千トン級の大型でいままでの 景福丸シリーズ(3600トン)の倍の大きさで
速度も 23ノットの高速で、釜山ー下関を7時間で走りました。
これまでの実質主義だった連絡船と異なり、豪華な設備で海の女王と称されたのです。

2隻の就航で旅客定員が倍増したので渡航制限は解除されました。
金剛丸

昭和11年11月 金剛丸(こんごう)が就航しました。

戦争になるまで働いて多くの旅客や貨物を運びました。

昭和20年5月 触雷 死者1負傷4 浸水は多いので残島に乗りあげ
昭和21年7月 浮上 昭和25年7月 朝鮮戦争のため米軍に傭船
昭和26年10月 台風で航路を誤り長崎で座礁:傭船解除
昭和28年10月 離礁できないので現地売却


興安丸

同型の興安丸(こうあん)は昭和12年1月に就航

昭和12年2月 釜山港付近で底触 ドックで修理

この間 働いて多くの旅客や貨物を運びました。

昭和20年4月 触雷 死傷者無し、傾斜したま下関に戻る。

興安丸

昭和20年8月 帰国する日本人・韓国人の輸送にあたる
昭和22年1月 引揚輸送解除
昭和25年 8月国家賠償のため朝鮮郵船鰍ノ

引き渡される

画像は
「ある戦後史の序章-MRU引揚医療の記録」から


上の絵葉書には「金剛丸」下の絵葉書には「興安丸」と印刷されていますが 煙突から出た
煙の形が同じなので同じフィルムを反転して使ったものと推測できます。

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