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高麗丸/新羅丸

 
明治38年に就航した、関釜連絡船の壹岐丸・對馬丸 それに傭船を合わせても
増大する朝鮮航路の荷や旅客の需要に応じる事はできませんでした。

高麗丸

乗客が夜乗って朝到着する 夜行便を
好んだので、鉄道省は川崎汽船に夜間
運行専用船を 発注しました。

大正2年1月 高麗丸(こま)が就航しました。

壱岐丸/対馬丸で不評だった多段ベットを廃止
客室を畳敷きの広間にしました。

大正9年7-9月は京釜線が不通になったので
釜山-麗水-木浦の航路で物資を輸送

写真:東北大学附属図書館所蔵
大正12年の関東大震災の時は救援物資を運び、鉄道が東京ー三島が不通になった ので
復旧するまでの数月間 区間海上運送をしました。

大正14年8月に遊覧船して団体客を乗せて北海道、樺太まで載せた事もありました。

昭和6年5月 樺太の稚泊航路に転属
最後は昭和8年 北日本汽船に売却


新羅丸

同型の新羅丸(しらぎ)は大正2年4月に就航

万一機関が故障しても漂流するのではなく帆走
もできる設備がありました。

新羅丸も関釜航路だけではなく 昭和7年の上海
事変のとき陸軍に病院船として3月から7月までは
塗装も白に赤十字の印しをつけて負傷した兵士を
多数運びました。

最後は昭和20年5月 ドック入りから下関に向かう途中 門司付近で触雷して沈没

写真は両船とも釜山港に停泊中の様子。後ろに影島の蓬莱山の稜線が見えます。

写真は佐賀県名護屋城博物館所蔵


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