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景福丸/徳寿丸/昌慶丸

  明治38年に就航した壹岐丸・對馬丸から始まった下関と釜山を 結ぶ関釜連絡船は
旅客・貨物の増大していくばかりです。
これにあわせて、神戸三菱造船所に大型新造船建造を発注しました。
今回の命名は朝鮮の3つの王宮の名前からです。

これまでの連絡船は食事代が運賃に含まれたいましたが 高速になったことや、船酔いで
食事を取れない客も多かったので 別料金になりました。 景福丸

大正11年5月 景福丸(けいふく)が就航
しました。

高麗丸は16ノットの速度でしたが景福丸
(3600トン)は19ノットの高速で下関と
釜山を結びました。

機関の増大に合わせて煙突が2本になり
帆走の設備は不要とされました。


神戸の造船所から下関に回航する航海に来日していた英国の皇太子プリンス・オブ・ウエールズ公が
初乗りをされ、記念のサインがロビーに掛けられていました。

大正12年の関東大震災では高麗丸といっしょに食料品などの救援物資の臨時輸送に あたりました。

昭和19年 米軍の投下した機雷で下関港が危険になったので 釜山-博多間の航路に変更。
昭和20年7月 米軍の投下した機雷の為に下関で封鎖されていました。
昭和20年8月 敗戦で関釜航路がなくなったので青函航路に転属
最後は昭和33年売却


徳寿丸

同型の徳寿丸(とくじゅ)は大正11年11月に就航

大正15年8月2日、金祐鎮と尹心悳が玄界灘で投身心中

昭和13年1月 下関で修理を終え係留中だった徳寿丸に
入港してきた景福丸が衝突し、徳寿丸は沈没しました。
4月に引き上げましたが修理で運行再開は7月になりました。

米軍の機雷封鎖のため昭和20年6月からは関釜連絡船は
運航できません。浦項やその他の港に入りました。

昭和20年8月 徳寿丸と興安丸は 敗戦で引き上げる
日本人と、帰国する韓国人の輸送にあたりました。

昭和22年1月 関釜引揚輸送終了、同年7月樺太からの引揚輸送開始

その後青函航路や米軍傭船の仕事をしながらがんばりました。
昭和36年三菱商事に売却


昌慶丸 同型の昌慶丸(しょうけい)は大正12年3月に就航
3隻がそろいました。細い2本煙突がこの船の特徴です。

最終型なので洗練されたのでしょう速度は20ノットの
高速になりました。

3隻増えたので、大正10年46万人/年だった乗客は
大正12年には62万/年に増大しました。
貨物の増加は さらに増えたので専用の貨物船も
新造することになりました。
昭和17年6月 釜山港付近で座礁、1ケ月の修理で運休
昭和20年6月 封鎖されていた博多港を脱出し、以後、敗戦まで須佐と大陸航路に就航
昭和20年7月 宮津湾で米軍機の空襲を受け沈没、水深が浅かったので全員無事
昭和21年7月 浮揚
昭和22年8月 修理完了 青函航路に就航
昭和27年1月-4月 米軍の傭船 その後青函航路
昭和36年 売却


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