釜山港と下関を結ぶ定期航路は 日露戦争の終結から
始まりました。
最初の「
壱岐丸」から敗戦で最後になった「崑崙丸」まで
急増する貨物や旅客のためしだいに 大型船に
なっていきました。
明治38年(1905)に京城(ソウル)と釜山を結ぶ京釜線が
開通しました。
それに連動した定期連絡船が必要になり、山陽電鉄の子会社で山陽汽船が最初の関釜連絡船として
1700トンの
「
壱岐丸」を
就航させました。
数月後「対馬丸」も追加就航し 隔日運行から毎日運行になり、
増え続ける旅客や貨物に対応するように
なりました。
大正2年(1913)
約2倍の大型になった3000トンの「
高麗丸」
(こままる)が就航しました。
同型船の「新羅丸」とともに釜山と下関の航路を航行
しました。
旅客600人と約千トンの貨物を運べる1本煙突の連絡船です
大正9年8月から朝鮮からの移入貨物に対する税が廃止に
それ以後、税関職員の乗船は廃止になりました。
大正11年(1922)になるとさらに大型の「景福丸」シリーズ3隻が就航を始め、
12/16 日本渡航する朝鮮人の警察が発行した旅行証明書が廃止になりました。
「高麗丸」「新羅丸」は貨物用の不定期航路になりました。
釜山を出る客があまりに多いので大型船3隻になっても満席が続きます。
それで総督府でもお客を選んではいけないと言う意見と 用事のある人を
優先させるべきだと意見が分かれるくらい問題になりました。
(東亜日報:昭和3年11月15日)
日本に渡航する朝鮮人は原籍警察の渡航証明が
必要となり、渡航者で釜山港は大混雑になりました。
(東亜日報:昭和3年11月26日)
月の渡航者が5万人を超え、さらに大型船の要求が
高まりました。
昭和11年(1936)になり新造船の金剛丸,興安丸が
就航して渡航制限は廃止されました。
石炭を焚いて黒煙をあげながら出発を待っている関釜連絡船
当時の釜山港出発ロビーの様子や連絡船の姿が目に浮かびます。
当時の関釜連絡船と桟橋の写真です。
建物を中心に反対側に釜山港の駅があり、すぐ乗れる ようになっていました。
「興安丸」は最初に船室全体に空調がついた連絡船です。
姉妹船「金剛丸」といっしょに玄界灘を豪華に航行したのです。
関釜航路は青函航路の倍の需要があったので、豪華な
新造船はここに投入されたのです。
古くなると青函航路、樺太航路などに移動しました。
「興安丸」は敗戦後は海外邦人の内地引揚げや
在日韓国人の帰国輸送などに使われました。
連絡船最後は「崑崙丸」(昭和18年就航)と「天山丸」(昭和17年就航)です。
戦争末期だったので米軍に撃沈され犠牲者がでました。
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