内地の主要都市では電車が利用されている事で
大正10年(1921)平壌府協議員や民間識者から
府営電車の建設の意見提出がありました。
総督府鉄道局に相談した結果 電車経営が有望だと
認定されたのです。
平壌市街鐵道会社を創った内田録雄や石隈信乃など
28名が株式会社として電気軌道の敷設申請を出して
いました。
写真は当時の平壌府庁:平壌案内から
平壌府は公共事業の趣旨を説明し、協力して建設する
ことにし、内田録雄や発起人5人を
府の調査委員として建設計画を
立てることにしました。
資金は公債で大正11年に48万円、14年に15万円、昭和2年に24万円を借入れ
公債発行手数料を合わせて88万円を昭和16年までに償還することにしました。
大正11年7月起工-12年4月までを第一期工事
最初は平壌駅から新倉里まで複線を敷き、
定員40人の車両10両で始めました。
写真は当時の平壌停車場:平壌案内から
引き続き 平壌郵便局前から分岐して
大同江の人道橋の開通に合わせて橋の
向こう側まで単線を12年11月就工しました。
第二期工事は大正14年
支線を船橋駅まで、本線を箕林里まで延長
第三期工事は昭和2年
船橋里から寺洞までの新線敷設、
自太神宮から箕林里まで複線化
写真は当時の平壌郵便局:平壌案内から