平壌で最初の市内交通機関は人力軌道と人力車でした。
明治38年(1905)9月、資本金1万8千円の平壌市街
鐵道会社を
有志7人が出資して立ち上げました。
明治44年 組織を改変し 佐川源太郎、川崎庫之助、
村井正明の
3人の共同経営になりました。
敷設区間は新市街大和町から平壌停車場までの1里半を
複線で作り、写真のように人力で押す軌道(軌間2尺)で
定員4人の客車24両で運用していました。
客車は両終点で待機し 随時 乗客の求めに応じて
出発していました。
料金は10銭で人力車の半分で停車場と新市街の交通 機関として重宝がられていました。
道路の整備で人力車の速度が上がり、行動範囲も広がったので競争力を失い
しだいに鉄道の客数が減少して行ったのです。
終に大正5年に廃業になりました。創業から明治43年までは帳簿がなかったので 数値は不明
年度 | 乗客数 | 売上 |
明治44年 | 90,532 | 8,121,000 |
大正元年 | 80,216 | 7,339,000 |
大正2年 | 75,365 | 6,959,000 |