明治42年6月(1909)に
釜山軌道株式會社が
東莱温泉を利用する湯治客を運ぶため、釜山鎮
から東莱温泉までの6哩(マイル)を結ぶ軽便鐵道
を始めました。
最初の軽便鐵道なので軌道幅は2フィートで狭い
軌道です。
明治44年2月(1911)に韓国瓦斯電気株式會社が
軽便鐵道を買収して市街地の電車と郊外の
軽便鐵道の2系統を運営する計画をしました。
大正2年韓国瓦斯電気株式會社は
朝鮮瓦斯電気株式會社に社名変更
大正4年(1915)11月1日に4万5千円の巨費を投じて軽便鉄道の起点の釜山鎮と
釜山郵便局前まで電車線が繋がりました。
大正5年(1916)に 大廳線が 釜山郵便局から 朝鮮瓦斯電気會社前までつながり、東莱までの軽便鐵道を廃止、電化しました。
大正6年(1917)には幹線長手線が5哩が完成し市内循環線として、 合計11哩が市民の足として愛用されました。
大正7年(1918)には釜山鎮-釜山駅の間が複線になり、
大正14年(1925)には寶水洞から分岐して慶尚道廳前を過ぎて
中島町終点までの路線ができました。
昭和2年(1927)に東莱までだった市外路線を温泉場まで延長しました。
釜山鎮から東莱温泉場までは狭い市街地では使えない大型車両を
投入し、市民の需要に答えるように運行を始めました。
昭和3年(1928)9月には中島町までだった路線を 大新町の釜山運動場(九徳運動場)まで伸ばしました。
写真は大新町電車停留所
昭和6年(1931)に軌道を複線工事と合わせて標準軌道に変える工事が
始まり、車体の交換を進めました。
昭和9年(1934)に運動場から釜山鎮までが複線として開通しました。
同年 影島と開閉式の大橋で結ばれ、市電も南港町までの 牧島線が伸びました。
同年7月 富平町通路線を廃止して土城町経由の大きな環状線に
切り替えました。
赤い線で昭和11年現在の路線図を示しました。
東莱方面は地図から出るので表示してありません。
昭和9年(1934) 11月 釜山駅から府庁までの新しくできた
幹線道路(大橋通り)に郵便局前の道路から線路を移動しました。
長手線も新たに埋立で出来た昭和通りに移動を予定します。
料金(昭和4年)
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釜山郵便局前の市電 (佐賀県立名護屋城博物館所蔵) |
年号 | 乗客数 |
大正7年 | 2,033,027 |
大正8年 | 2,514,655 |
大正9年 | 2,325,643 |
大正10年 | 3,017,001 |
大正11年 | 3,865,827 |
大正12年 | 4,421,392 |
大正13年 | 2,495,885 |
大正14年 | 6,897,963 |
昭和元年 | 4,491,087 |
昭和2年 | 9,755.142 |
昭和3年 | 10,580,062 |
昭和4年 | 10,895,350 |
昭和5年 | 10,112,075 |
昭和6年 | 9,756,124 |
昭和7年 | 9,327,252 |
昭和8年 | 9,555,300 |
昭和12年 | 15,552.559 |
昭和13年 | 17,648,876 |
昭和14年 | 24,238,657 |
昭和15年 | 33,855,404 |
昭和16年 | 39,577,004 |
昭和12年(1937)に大興電気(株)など南朝鮮の6大電気会社が合併して
南鮮合同電気(株)が
できました。朝鮮瓦斯電気の電車とバスは新会社の経営となりました。
釜山の路面電車-2(戦後)