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嶺南支線鉄道会社

明治35年(光武6年:1902)6月 朴琪淙は 釜下鉄道会社の失敗に負けないで 新たに
嶺南支線鉄道会社(社長:李載完)を作りました。
京釜線の三浪津から洛東江経由で馬山までの 馬山線の建設を目的にしていました。

同年11月 鉄道院より認可を得ました。前回の失敗の原因になった「韓国人の独占事業で
外国人に株や権利を一切与えないこと」を敷設権許可の条件から外していました。

明治32年に釜下鉄道会社で取ってあった「京城-義洲」「京城-元山」間の免許と合わせて
各地の有力者に出資を呼びかけました。

日本の京城駐剳全権大使は日本に権益が発生する可能性があるとして資金提供を考えました。

明治35年12月 外務省本省に稟議を出して承認をもらい、第一銀行京城出張所の主任:高木
正義の 自宅で嶺南支線鉄道会社の社長:李載完と重役と会って出資契約をしました。

明治36年4月 京釜鉄道会社の技師 笠井愛次郎が委託を受けて三浪津から馬山までの
コースの 調査を行ない、洛東江の架橋とトンネル工事で予算が相当かかることを報告しました。

京釜鉄道会社は資材を洛東江から三浪津に運ぶため6kmの臨時支線建設を鉄道院に申請した
けど拒否されました。そこで嶺南支線鉄道会社の線として京釜鉄道会社が立替して作ることになり、
明治37年5月 臨時線路が開通しました。

日露戦争 明治37年(1904)2月から日露戦争が始まり
日本政府は三浪津-馬山間の鉄道建設を
急ぐ必要があると決定しました。

バルチック艦隊が本国出航の情報と迎え
撃つため馬山湾(鎮海)に待機する戦艦
「三笠」以下聯合艦隊に軍需品を輸送する
必要があるからです。

艦隊決戦をロシアが避けて、ウラジオス
トックに大半が到着できたら、制海権を得る
ことが無く、日本と満洲遠征軍との連絡は
鉄道に頼るしか方法がなくなります。
同年9月 韓国政府から嶺南支線鉄道会社に対して不可抗力による履行不能なる理由として契約
破棄を 通告、私企業の損害は日本政府が負担することを求めました。

日本政府は嶺南支線鉄道会社に対して創業費と工事費合わせて7万5千円を支払い、第一銀行の
負債を 立替して、軍用線路として馬山線の建設を臨時軍用鉄道監部に命じました。


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