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釜下鉄道会社

明治29年 京城と仁川を結ぶ鉄道が許可されると、釜山でも鉄道計画が持ち上がりました。
洛東江

洛東江の水運を利用できる 沙下の下端と
釜山 との間6哩(マイル)に鉄道を敷く目的で
釜下 鉄道会社(社長:朴琪淙)ができました。

鉄道が出来るまでは 慶尚南道の内陸への
貨物は ほとんどが洛東江の水運に頼って
いました。

広い大河を帆船、汽船が往復していました。

韓国は傾斜が緩やかなので数100キロ上流
まで 大きな船が遡ることができたのです。

写真は洛東江:2007/02撮影)
明治30年(光武2年:1898)6月 農商工大臣より認可を得て、出資を釜山の日本人に
求めました。ところが資金を集まる前に京釜鉄道の敷設権の認可が下りたので 短距離の
釜下鉄道は採算が取れないだろうと思われ、資金が集まらず行き詰まってしまいました。

朴琪淙は釜下鉄道敷設権の獲得に使った資金を回収するため、方向を変えて京釜線の三浪津から
洛東江までの支線建設を考えました。それだと洛東江の水運を利用できるので京釜線の建設の
資材を運ぶのにも便利だし、京釜線が出来た後も貨物や客数が望めそうです。

明治34年 認可が降りる見込みが出たので、日本の京城駐剳全権大使に獲得費用と、下端線の
損失金を合わせた金額を借りることにしました。

許可を貰う為に 釜下鉄道会社の社長を 内大臣完順君の李載完として、王室の英親王宮に付属
させるという 条件を出していました。

韓国王室は韓国人の独占事業で外国人に株や権利を一切与えないことを敷設権許可の条件とした
ので 林公使は日本にメリットが無いなら資金の提供は出来ないと拒否しました。

他の韓国人の有力者に いろいろ運動したけど資金は集まらず、釜下鉄道会社は消滅しました。

嶺南支線鉄道会社に続く


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