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戦後の鉄道史 1

日本の敗戦で朝鮮総督府は[呂運亨]に建国準備委員会の結成を許可し、政治犯の
釈放と行政権限の一部移管を始めました。

鉄道は国家建設に重要な課題だとして従業員会が日本人からの引継ぎを始めましたが
多くの駅や施設で引継ぎではなく接収だとして日本人の出入りを拒否し朝鮮人が配車や
運転の指令を始めたので混乱が始まりました。

北緯38度線を境に南北を分けて、 南を米国の軍政府に 北をソ連軍による統治する
ので引継ぎを禁止する命令を朝鮮総督府は米軍から受けました。

米軍は当初 日本人管理者を使って運営を考えていましたが現場が強く拒否した為、
これを諦めて 第790鉄道運用中隊と131鉄道工場隊を配置しました。

戦争前は鉄道従業員の60%が日本人でしたが、戦争が始まると徴用され、
その後を朝鮮人の採用で埋めたため日本人の割合は30%を割っていました。
ほとんどの朝鮮人の勤続が3年未満が大半で、経験不足の管理者が登用されたようです。
日常のメンテにも支障が出て10月7日になると完全に機能停止にりました。

朝鮮解放者号 困った米軍政府は日本占領用にフィリピンで
待機させてあった第737鉄道運用大隊と
第771鉄道運用大隊の解散を急遽中止して
朝鮮に投入しました。
鐵道運用大隊の管理を大田以北と大田以南に
分けて米軍の直接管理したことで、やっと
鉄道が再び動くようになりました。

日本式の鐵道運営方式から米国式に変化
したのはこのためです。

米軍鉄道工作隊の指導で壊滅状態だった
修理工場も 稼動率が少しずつ上がりました。
1946年の5月27日 戦後最初に竜山工作所で組み立てられた機関車「朝鮮解放者号」
(ヘバンチャ号)が京釜線を走るようになりました。

北の状況も ほとんど同じです。
ソ連軍は他の日本人の安全帰国を保障する代わりに日本人管理者と技術者の
数百名を抑留 そのまま仕事をさせ、ソ連技術者も多数投入したようです。


写真は朝鮮解放者号:「近代化40年」朝鮮日報社より引用
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