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一兵士から見た朝鮮戦争 (朝鮮戦争15)

先日 朝鮮戦争で兵士として参加された方から話を聞くことができました。
幸いにも 朝鮮戦争の歴史を簡単に解説するため 資料を読んでいたので話す内容が
ほとんど理解できたのです。質問する度に 彼は雄弁になりました。2日間 いろいろな
エピソードを語っていただきき充実した時間を過ごすことができたのです。

語ってくれた方は釜山にお住まいの「鄭○○」さんです。
詳しい内容は後日 機会があれば 書いてみたいと思います。
今回は 彼が韓国軍一兵士として経験した朝鮮戦争の全体の流れをご紹介します。 首都師団

彼はソウル大学内に作られた2年間の短期教員養成課程を
出て、東莱の学校の教師に採用が決まり、道庁に 赴任の
手続きに行くと 戦争が始まったので自宅待機する事を
命じられました。

当時の大学は卒業が6月だったそうです。
自宅待機していると 9月に召集令状の赤紙が来て 1月程度 
銃の撃ち方など基礎訓練を「大邱」で終わると 首都師団に
配置されました。

首都師団はソウル防衛軍なのですが 北の攻撃で ソウルが陥落
して から退却を続け彼が入った時は慶州付近に布陣していました。
釜山橋頭堡を守る激戦地だったのです。

朝鮮戦争当時の韓国軍は3つの軍団があって、首都師団は
第一軍団に 属していて 師団の中に3つの連隊がありました。


第一軍団
 第三師団
 第七師団
 首都師団(第一連隊(猛虎連隊)、第26連隊、機甲連隊)
第二軍団
第三軍団


彼は 学歴が考慮されたのか 司令部に配属され、司令部には
米軍将校1人と大勢の将校がいて 兵卒の司令部勤務は数名しか
いなかったそうです。

マッカ-サーの仁川上陸作戦で 攻勢になった首都師団は「安東」
から「大観峰」まで内陸を北上し、そこから東海岸に抜けて
 海岸線を進んだ  第三師団と「江稜」で出会いました。
そのまま38度線を突破 「清津」まで進みました。
もちろん すべて徒歩です。

中国との国境に近づいたとき 中国軍の参戦があり、激しい
攻撃を受けました。後退することになり 汽車で「興南」まで撤退し
そこに待っていた 数百隻の船に乗り込んだそうです。

彼の乗ったLSTと呼ばれる揚陸船はすべて日本人の乗組員だった
そうです。旧海軍の方々が朝鮮戦争での掃海の実績も有名ですし、
米軍に雇用された船員がいたとは聞いたことがあったけど具体的な
証言を聞くと 日本が撤退作戦に参加など事実上参戦していた事を
実感します。

難民達は釜山に送られ、韓国軍首都師団は 洪陵の南にある「墨湖(現在の東海市)」で
下船して 再度戦線に向かったそうです。

そこで今まで見た米軍の使い古したGMCトラックしか見たことがなかった
のに 日本製の新品のトラックが多量に配備され嬉しかったそうです。
その時から 歩く事よりトラックでの移動が主になったそうです。

鉄の3角地帯とよばれる中央部の激戦の場所に首都師団は配置され
司令部が「金化」にありました。

彼は人事担当なので 「春川」の飛行場に新兵を受領する作業をしていました。
当時の飛行場は今の市内の中央にあったそうです。
新兵は「済州島」で基礎訓練を受けて空輸されて来たのです。
金化付近は 激戦地で毎日の戦死者の中に出したばかりの新兵の名前を
何度も見て悲しかったそうです。

中国軍の退却を追う時 ソ連のマリク大使が休戦を提案し米軍が受入れ
戦闘を停止したのは 共産軍の時間稼ぎの乗ってしまった事だと話しています。

中国軍は武器も食料も使い尽くして後退する状態だったそうです。
日本製のトラックがあったので あと数日で平壌付近まで進撃できる
状態だったと残念がって話してくれました。

停戦で補給ができた中国軍は強力で、進撃はできなくなったそうです。
そのまま 長い休戦会議は続き、戦線は膠着していました。

その間 智異山のゲリラ討伐作戦に出たり戦線に戻ったりして月日が流れて
休戦締結の少し前の53年2月 除隊になって釜山に戻り2年半の軍隊生活を
終えたそうです。

今でも 当時の戦友の顔や当時の状況を思い出す事が多いと聞きました。

写真:映画「ブラザーフッド」BIXCOでの展示会にて


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