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捕虜収容所の巨済島の暴動 (朝鮮戦争13)

巨済島の暴動

休戦会談の最大の困難となったのは捕虜問題です。

国連軍の持つ捕虜はきちんと管理されていますが
共産軍の持つ捕虜の数は国連軍で捕虜になったと
する数の半分以下しか報告されていないようです。

共産軍は捕虜を殺し、さらに捕虜を自軍に編入して
戦闘に使ったようです。

共産側はソウルやその他の都市を占領した時 多くの
若者を強制徴募して北に編入していました。

そのような人は捕虜交換で北に帰えされるのを
拒否したのも当然です。

中国軍も含め過半数が北に帰るのを拒否したので
問題は複雑になるのです。

米軍は主な捕虜収容所を巨済島に作り、余りに
多いので峰岩島や済州島にも収容所を作りました。

そこで不可解な事件が起こりました。
巨済島の捕虜収容所で暴動が起こり 収容所所長の
ドッド准将が捕虜の捕虜になりました。

生死に関わらず24時間以内に奪還せよと鎮圧命令を受けたクラーク将軍は命令を無視して交渉で
5日後に無傷でドット准将を救出するも捕虜の過大な要求を飲んだため 休戦交渉が不利になって
長引き、その間多くの将兵が死傷したとして軍法会議で降格されました。

分からないのは 何故ドッド准将が捕虜の中にはいって捕まったのか?
司令官が直接 暴動を起こすような捕虜のいる収容所内に入る事がまず不可解です。
連絡用の下士官程度でも武装した兵を連れて収容所内に入るのは常識です。

クラーク将軍も何故 鎮圧命令を無視して捕虜の要求を聞いたのか?

たとえ無茶な要求を飲んでも、離島の収容所の事なので その後 書類を取り上げて
暴動の首謀者を処刑し、契約は方便だった事に出来るような発想も出そうです。

最大の疑問は 何故 暴動の経緯が休戦交渉の問題になるように情報が伝わったのか?
離島の収容所の暴動内容の詳細が敵に流れるのは明らかに異常です。

不可解な事 ばかりです。


収容所事を書いた書籍によると、収容所長のドット准将は朝晩の合唱を認めていたようです。
歌が暗号になっていて外部と連絡をしていたようです。北からの連絡は故意に捕虜になる
ことで行っていたと解説されています。

暴動の後、収容所管理は国連軍のインド軍が担当しました。インド軍は通常の捕虜管理を行いました。
インド軍は捕虜が大声を出す事や合唱など認めないし、新たな捕虜と混ぜる事をしなかったので
連絡が 不可能になったようです

その後は不可解な事件や、暴動、情報漏れは起らなかったようです。


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