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休戦会談と戦線膠着 (朝鮮戦争12)

休戦会談と戦線膠着

休戦となると現在の戦線がそのまま休戦ラインになる
可能性が高いので 双方が寸土を争いました。

激しい攻防があり、鉄原-金化-平康の「鉄の三角地帯」と
呼ばれた地域で特に爆弾や弾丸が多量に使われました。

1951年8月 最初の休戦会談が開城で開かれました。
米国は現状の戦線を停戦ラインと主張
共産側は38度線を主張して譲らずに流れました。

その間も激しい戦闘は続いています。

米国は対日政策を変更しました。
戦力を削ぐ事から変更 共産圏への防御拠点とする
考えに変わり 対日講和条約を急ぎ 9月に講和条約が
サンフランシスコで締結されました。

1951年10月 板門店で2回目の休戦会談が開かれました。

両者が戦闘の接触点を非武装地帯として中央線とする
合意 ができ 1月間の停戦合意もできました。

しかし 双方の捕虜の交換問題で対立したまま 1月が
過ぎて 戦闘が再開されました。


共産軍ロケット車

双方とも堅固な陣地構築を続けたので激しい弾丸の
応酬はあっても戦線は膠着したままです。
合意の無い会談を重ね 年が開け1952年を迎えました。

国連軍のリストにある共産側の捕虜は13万余人、
共産側にある リストでは 1万余人がいました。

国連側は自由意志によって北か南を選ぶ自由送還を
主張し 共産側は元の国に帰すことを主張しました。
北は占領したソウルやその他の都市から強制徴用した
兵士が多いので彼らが北に送られるのを拒否するのは
当然です。


写真:ソウル戦争博物館にて:移動式ロケット弾発射装置


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