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ウラジオストック艦隊(太平洋艦隊支隊) 

明治37年(1904)の日露戦争といえば、東郷平八郎の率いる連合艦隊とバルチック艦隊との
日本海海戦はよく知られていますが、 戦意の高いウラジオストックのロシア海軍との日本海の
制海権をめぐる重要な戦いがあまり知ら れていないので紹介したいと思います。

ロシアの太平洋艦隊の主力は戦争の
前年(1903)から遼東半島の先端にある
旅順に移動し、対抗する日本艦隊も
主力を旅順方面に配置していました。

ウラジオストックに残った太平洋艦隊の
支隊に向けては旧式艦艇を集めた 片岡
七郎
(中将)の第三艦隊があたりました。

戦争が始まると氷で閉ざされていたウラ
ジオストク港の口に砕氷船で水路を作り
早々と日本海に何度も出撃して貨物船を
襲いシーレーンを脅かしました。

写真は旗艦の「ロシア」と艦長(征露時報)

初回
2月9日 出航
2月10日 青森沖で奈古浦丸を撃沈
2月11日、酒井港沖で全勝丸は砲撃、

出撃の宣伝の為撃沈しなかった。
2月14日 帰港

2回目
2月24日 出航 元山港と北朝鮮沿岸を偵察
3月1日 帰港

北海道や東北、北朝鮮付近の船舶はロシア艦隊
出撃にパニックになりました。

日清戦争のころの旧式艦艇で編成した第三艦隊の
パトロールではロシア艦隊に対処できないと悟り、
第三艦隊は連合艦隊に編入して、 上村彦之丞
(中将)の第二艦隊と交代してウラジオ艦隊に
当たる事になりました。
浦塩砲撃

3月6日 日本の上村艦隊はウラジオ
ストック港に ウスリ湾方面から接近して
薄氷の外から造船場、砲台、市街 地を
約50分間砲撃しました。

翌日はウラジオ要塞付近に駆逐艦で
接近し偵察したけど、ロシア艦隊は出て
きませんでした。

この絵は ウラジオ砲撃の時、ウラジオ
守備隊連隊長ヤコフ大佐の夫人が旗を
燃えないように保護する愛国光景

出典:極東の旧韓末の歴史の真実
朝鮮日報社


3回目
4月22日 ロシア艦隊は元山に接近して偵察
4月25日 水雷艇を港内に進入させ五洋丸を雷撃し沈没

津軽に向かう途中で金州丸と遭遇し砲撃沈没させる
予定を変更してウラジオに向かう
4月27日 帰港

上村艦隊は4月26日 元山に到達したがウラジオ
艦隊と濃霧のため遭遇できず、ウラジオ沖に機雷を
付設して 5月4日鎮海湾に戻る

蔚山の長生浦にいてウラジオ艦隊を捕束
できない上村艦隊に非難が集まりました。

4回目
6月15日 対馬海峡で和泉丸、常陸丸を撃沈
両船は兵士各千人余りを乗せて宇品を出て
遼東半島に向かう所でした。

佐渡丸は大破

5回目
6月30日 元山港を攻撃、停泊中の帆船4隻、

汽船7隻が沈没,英国汽船を拿捕
対馬海峡に接近するが上村艦隊と遭遇した
のでウラジオに帰る

6回目
7月17日 出航
7月20日 津軽海峡を通過、太平洋のシーレーンを攻撃

被害 撃沈7隻、拿捕2隻、臨検3隻
7月30日 津軽海峡を通過して帰港

7月24日上村艦隊は対馬から宮崎沖に移動して迎撃を
予定したが遭遇できず

7回目
8月10日 旅順の本隊がウラジオに戻るため全軍が
出撃すると、ウラジオ艦隊は援護するため 対馬付近に
向かいました。
旅順の本隊は黄海海戦で東郷平八郎の連合艦隊に
破れ対馬方面に向かうことができません。

蔚山沖で上村艦隊とウラジオ艦隊は交戦、3隻の
巡洋艦の1隻が舵をやられて自沈、2隻は小破で
帰港しましたが 修理が難航しました。

この蔚山沖海戦以後 ロシアは日本海のシー
レーンを脅かす艦隊運動はできなくなりました。


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