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草梁倭館時代 4

  

草梁倭館は四角の塀に囲まれた部分である日本人居留地と、草梁倭館を管理する朝鮮の役人達が勤務する
地域に2分される。

この頁では草梁倭館を管理する朝鮮政府の施設を主に紹介する。

日本側から見た場合の草梁和館は塀に囲まれた地域を指すが、朝鮮側から見た草梁倭館は管理施設のある
地域を含む設門(図右上)より内側を指すようだ。

(作画:金忠振さま)

6尺の高い石塀に囲まれた日本人居留地である和館からの出入りは陸路と海路があり、陸路の東南北の3箇所の門、
海路の港があった。

東の守門が通用門である。守門には朝鮮の役人が常駐し、日本人の出入りをチェックしていた。
役人のいる守門付属建物の前は板張りで奥はオンドルになっていた。

南側に不浄門があり、死者を埋葬の為出棺するときだけ使用する。
墓地は伏兵山裾

北側が宴席門、宴大廳で行われる公式行事の時使用する正門である。
宴席門は2つの門があり内北門と外北門と呼ばれた。

図の右上に設門があり、倭館時代の日本人の行動範囲はここまでであった。(現在の華僑学校付近)
例外として春秋の2回、設門を出て古館にあった旧倭館墓地の参拝が許された。
設門は海岸付近にあり山の稜線に石垣を積んで往来できないようになっていた。

門以外から日本人が出入りしないように伏兵幕と呼ばれる監視所が5箇所あった。

伏兵山の頂上からは倭館内が一望できる。明治時代の日本人居留地全景の写真は伏兵山から撮っている。
現在は伏兵山公園になっている。時間があれば訪れるのも良い(但し夏季は草木で展望が悪い、冬季推薦)

朝鮮の草梁倭館管理施設を紹介する。

宴席門(正門)は公式行事に使用。門を出ると宴大廳がある。(現在の光一初等学校:旧釜山公立第一尋常小学校)

宴大廳横の峠を越える道(現在の瀛仙峠道)を進むと「誠信堂」がある(現在は住宅:旧私立開成学校

峠を下り平野に「客舎」がある(現在は蓬莱初等学校:旧釜山公立普通学校
對馬の宗家から使者が来ると、国王接見の義の替わり客舎に安置されている木牌に礼拝(肅拝式)を行った。
客舎は釜山開港後に「大東館」となり、明治29年(建陽元年)には「東莱監理署」になった。
明治44年 客舎のあった場所に釜山公立普通学校が新築開校した。



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