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草梁倭館時代

(居住区)   
江戸時代は對馬藩のみが朝鮮との貿易や外交交渉
などを行なっていました。

延宝6年(1678)に 古館倭館と呼ばれた居留地
から龍頭山の麓、現在の中区に移転してから新しい
居留地が始まりました。

龍頭山の側の居留地は朝鮮から草梁倭館と呼ばれ
對馬は和館と称していました。

東莱府の役人がいる役所や通司(通訳)のいる
家、藩主の宗氏の代官所、倉庫などが主な建物で
石垣と塀で囲まれた場所です。

厳重に囲われた閉鎖区域で、門から自由に出る
ことは 出来ません。長崎の出島の様なものです。

交渉事は日本人が東莱府まで出かけるのでは無く
東莱府の役人がここに来て話合いになるのが
ほとんどです。

守門の部分を拡大しました。

守門には東莱府の役人がいて朝の6時に
開門して夕方6時に閉門します。

外出許可証がある人のみ時間内の外出が
できます。

薪炭や日用品の供給は東莱府の指定
商人(都中)から買うようになっていました。

倭館の居留地の守門を出てからの行動範囲は草梁に
設門があり、ここまでの外出が許されていました。

例外として春秋の2回は昔の日本人居留地だった
舊館(古館倭館)の墓地まで墓参に行くため 設門を
出ることが許されていました。

東莱温泉の湯治を楽しめたと言う記述の本が
ありますが 間違いのようです。

滞在日数にも制限があって 長く住む 事は
できず、仕事が終わらない内に期限が来る
と居留地から出たことにして、対岸の 絶影島に
渡ってそこで待つ事が多かったようです。

女性が釜山倭館の居留地への渡航する事も
禁じられていました。

草梁倭館の居住区だった付近の 現在の様子。
住所は釜山広域市中区東光洞2街です。

左側のビル付近に昔の守門があった
ようです。

看板にはハングルで「東光相互貯蓄銀行」
視点方向は南、向いは釜山ホテル

(2006/05撮影)
龍頭山の中腹に弁才天を祭った神社が
あり、そこのふもとが後の弁天町という
町名になり釜山の繁華街として栄えました。

戦後の町名変更で弁天町は光復洞と改称
されています。

居住区域は龍頭山の東側で、貿易用の
倉庫区域は龍頭山の西側にあり、「西館」と
呼ばれていました。



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