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釜山鎮居留地時代

釜山浦

鎌倉時代の終わりの原因になった元寇の後、
侵略された報復で対馬は倭寇となり、朝鮮から
中国 沿岸まで各地を荒らしていました。

正平23年(1368) 後村上天皇は対馬の領主の
宗経茂を高麗王に修好の使として送りました。

現在の釜山鎮に居留地を認め米千石を支給する
約束ができました。米を与え、交易を認めると
倭寇が無くなると 期待したからです

応永14年(1407)熊川県斎浦の港も開き2港時代になりました。

応永25年(1418)蔚山県塩浦、加背梁の2港が加わり4港時代になりました。

その後も倭寇が沿岸を荒らすことが続いたので、
高麗を倒した新政権の李氏朝鮮は居留地を廃止 交易は止まりました。
釜山浦

嘉吉3年(1442)足利義勝は倭寇を禁じて通商を
再開する癸亥条約を韓国と結び 居留民を
63戸に制限することに合意し、釜山浦、薺浦、
塩浦が開きました。

永正7年(1510)釜山浦の日本人釜山僉使の虐待に
抗議して熊川薺浦の在留民と共同で釜山城を攻め
僉使を殺害し熊川城も陥しました。

韓国朝廷は大軍で鎮定に来たので 両浦の
日本人は撤退し蔚山懸塩浦の居留民も引き
上げたので再度国交が絶えました。

これを三浦の乱(庚午の変)と呼ばれています。
熊川懸薺浦

永正9年(1512) 和議が出来たので 熊川懸薺浦
だけに日本人の居留を認め、釜山浦と塩浦は
日本人の在留を禁じたのです。これが壬申条約です。

天文10年(1541)薺浦で日本人と朝鮮人の
私闘がありました。

これを聞いた韓国朝廷は すぐ武力に出る
日本人に対して怒り,薺浦の居留地も閉鎖する
決定をしました。

これを薺浦の変と呼び。3度目の断交です。


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