Home > 歴史 > 資料
北濱埋立地町名地図
釜山の町が発展するにつれて土地が不足になり
埋立して町を広げました。居留地として制限されていたので郊外に町を
広げる事はできなかったからです。工事は 釜山埋築会社が行い 明治41年(1908)に
出来上がり 新しい町が生まれました。佐藤町(さとうまち)
1番地より22番地(3361坪)
岸本町(きしもとちょう)
1番地より15番地(2115坪)
池ノ町(いけのまち)
?
埋立新町(うめたてしんまち)
1番地より48番地(4498坪)
大倉町(おおくらちょう)
1番地より22番地(3314坪)
京釜町(けいふちょう)
鐵道用地(4843坪)
高島町(たかしまちょう)
1番地より24番地(2006坪)
中ノ町(なかのまち)
1番地より12番地(1435坪)
明治38年(1905)には下関を結ぶ 関釜連絡船の
運航が始まり内地との旅客や貨物の流通が活発に
なったのです。明治41年には赤レンガの近代的な洋風建築の
釜山駅ができ、京城までの連絡が 便利になりました。
釜山理事庁と釜山居留民会は釜山埋築会社の 功績を称えるため、工事関係者の名前を
新町名に採用しました。
大倉喜八郎(社長) --->大倉町
佐藤潤象(取締役)----->佐藤町
高島義恭(取締役)----->高島町
池田永吉(技師・監督)-->池の町
岸本順吉(技師) ------>岸本町
中山希賢(大倉組支店長)->中の町
京釜鉄道会社敷地 ---->京釜町
釜山埋築会社--------->埋立新町
Home . 釜山旅行の基本情報 . 人物 . 歴史 . 乗り物 . 交通史 . 名所・旧跡 . 釜山の街角風景
. 釜山の街角今昔 . 街角今昔2 . 食べた物 . 昔の生活と文化 . 釜山近代史年表