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開港前の釜山
明治になると対馬の藩主宗義達を外国事務輔に任命して、朝鮮国に政変の通告をすることを
命じました。宗義達は家臣の樋口鐵四郎を正使として釜山に送りました。文書に含まれた(皇、勅)という用語や印鑑が従来の慣例と異なる として受取拒否されてしまいました。
明治2年8月7日に明治政府は對馬藩の
名前を巌原藩に変更を命じました。
明治3年(1870)11/23 宗重正(義達)は
朝鮮に藩士を使節として送っても受取を
拒否されるのでをこれ以上の交渉は無理
だとして外国事務輔を辞任しました。明治4年の廃藩置県となるとは朝鮮との
交渉は太政官制度に基づいて外務省の
外交官が交渉を行うように方針になりました。画像は明治5年の外務省
躍進日本外交史(昭和15年)釜山日報社
明治5年5月 外務卿の福島種臣は巌原藩士の
長崎と草梁館の駐在を廃止し、8月外務大丞の
花房義質と 外務小記の森山茂を釜山に派遣し、
人事の更新を行いました。深見六郎(外務出仕)を草梁館司に任命、樋口
鐵四郎(大修使)を罷免して、對馬から出張した
差使の相良正樹と新任の挨拶で東莱府の府使訓導
俊卿である「安僉知」まで訪ねました。府使訓導俊卿「安僉知」は今までの慣例である文書
形式が異なっているとして受け取りを拒否、草梁
倭館の薪炭や日用品の供給も停止しました。前年の明治4年に開国を求めた米国艦隊が 江華島で
砲撃・上陸して戦闘があった後なので開国とか開港
等の言葉に鎖国中の朝鮮は神経質になっていたのです。
交渉が進まないので花房義質は同年9月 外務小録の奥義制を釜山に置き、森山小記を對馬に
管理のために残して東京に帰りました。花房義質の後の釜山での交渉責任者が森山茂です。
明治6年 朝鮮の反日感情が高まり東莱府の指示で草梁倭館の門の出入が厳重に制限され物資が
入らず生活にも困ったようです。森山の報告で朝鮮での反日感情の高まりが日本に伝わると嫌韓の気分が日本国内に広がり、
征韓論が出てきました。
日朝交渉の詳細はアジア歴史資料センターの下記にあります
・朝鮮尋交始末・上(A04017197400)
・朝鮮尋交始末・中(A04017197600)
・朝鮮尋交始末・下(A04017197800)
朝鮮国草梁倭館在住同国交際事務並漂民取扱外務省掌管トナル(A01000019100)
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