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大邱薬令市移転問題

大邱薬令市

大邱の薬令市は李朝 孝宗9年(1658)に清に薬材を
献納するための良薬を集める為 春秋の2回 韓王の
命令で 市を開く薬令市として始まりました。

大邱監察史が選んだ良品以外の薬材を交換・売買
するため、大邱に全国から薬の商人が集まったのです。

大邱の薬令市は 大正3年からは年1回 旧正月前の
冬季に 開かれるようになっていました。

広告:東亜日報:昭和3年12月8日
堤川薬令市

王の命令で大邱を指定して開いた薬令市でしたが
日韓併合で王の命令は消えた為、各地で自由に
薬令市を開くことができるようになりました。

全国各地の市場で薬材の交換売買が行われ始めました。

高麗人参の産地で名高い黄海道の開城や薬膳料理で
名高い全羅北道の全州など 独自で市を立て 大正15年
からは全国的なキャンペーンを始めたのです。

画像のように昭和3年には忠清北道の堤川市も薬令市を
開始して西側の市場押さえにかかります

最初の大邱薬令市の広告では単に開市の期間の連絡
と通常の挨拶しかありません。

堤川では妓生の歌舞や演劇、花火など会期中は毎日
イベントを行うことを唱って観光旅行も兼ねることが
できるとしています。 昭和3年/11/02の東亜日報から
大田薬令市 晋州薬令市

大邱の競争相手の都市の 開城や全州は
秋に薬令市を開き大邱の客を事前に奪う
こと狙っていました。

大田や晋州は薬令市の会期を大邱に重ねて
客の分散を図ります

自由な市場経済競争なのでそれぞれが工夫を
して 訪問客を集める事は当然のことです。

大田:昭和3年/12/06
晋州:昭和3年/12/08
大邱薬令市移転問題 大邱の西門市場全国統計でもベスト5にはいる大きな
市場です。西門市場をさらに発展させるため 天主堂池と
呼ばれる湖沼を埋立して5千坪の敷地に新築移転しました。

跡地に薬令市が入れば残った倉庫や公設市場の建物などが
活用でき、薬令市の規模も数倍になれるので全国シェアの
回復に 有利だとして、移転運動が始まりました。

全国紙の東亜日報も7回にわけて大邱の有力者に賛否両論を
取材し、移転問題の特集記事を載せました。

1.昭和3年11月10日 歴史を無視しては到底 不可能

2.昭和3年11月11日 市場均衡上不可能

3.昭和3年11月12日 店舗が散在顧客に不安

4.昭和3年11月13日 外侮の招致それが損害 我らの発展は永久的市場

5.昭和3年11月15日 共存共栄勿失の好機

6.昭和3年11月18日 移転運動即破滅運動

7.昭和3年11月19日 私の立場ではコメント困難 場所移転は敗北の帰路

結論として 移転は反対が多く 実行できませんでした。
保護から市場経済の競争にさらされた大邱の薬令市は 挽回の機会を失いました。

市場競争では来客数が多いうちに 倉庫などを充実させて品揃えを全国トップを維持
今までの道路での露店の薬令市ではなく 屋根のある常設のイベント会場で、
遠方から来た薬商人に便宜を図る事を推進をすれば 市場競争で勝り トップを
維持できたと思います。

反対の理由を伝統やその他 市場競争原理での勝利とは 関係のない別な要件である
ことが興味深いものです。
本音は 薬令市が南城町から市場町に移転すると今までの店舗の売上が下がることを
嫌って反対したのでしょう。

伝統の大邱薬令市はしだいにシエアを失い衰退し、 朝鮮戦争で中止になった後 
戦争が終わっても 復活できる力はありませんでした。


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