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釜山の遊郭の歴史 1

江戸時代 朝鮮国が対馬藩に交易の為の場所として 長崎の出島のように
釜山に居留地を作っていました。

居留地は塀で囲まれていて管理は厳重で出入りには書類と確認が必要でした。
そして女性の釜山上陸は認めていませんでした。
臨時の交易の為の場所であって生活の場所では無いとしていた為です。

石垣で囲った居留地内に 男だけが短期間交代で住む殺風景な場所でした。

( 遊女の画像は「硝子の羅針盤」から )


明治9年になり江華島条約で釜山が開港になると、監督官( 近藤眞鋤)が置かれました。 
居留地内を日本人は自由に出入りができるようになりました。

日本人女性で最初に釜山の地を踏んだのは 釜山に赴任した書記官の妻が同行したことが
始まりです。東莱府の役人は驚いて退去を要求したのです。開港条約で日本人なら居留地内に
立ち入りは自由であるとして 拒否し女性の釜山滞在は既成事実になりました。
以後 女性の渡航が始まり、釜山の商人たちも家族がいっしょに住む事ができるようになりました。

明治15年には芸妓取締規則ができ
釜山の料亭で芸者や舞妓が接待する
ことができる鑑札を発行しました。

明治35年7月 居留地内の外れ
(富平町特別区)に特別料理屋
営業の許可が監督官から出ました。

特別料理屋とは娼婦を客席に侍らす
ことができる料理屋で内地の貸席と
同じものです。

これが釜山の遊郭の起源になります。

地図は明治34年の釜山日本人居留地

上野安太郎は京釜鐵道が起工されると、呉服や食料品を
もって現場を回り行商を行っていました。

監督官の出した特別料理屋の許可を聞くと ただちに行動に
でたのです。 有力な競争者が出る前に、広島に渡り 遊女を
10数名雇って 初代「安楽亭」を開きました。

これが釜山で最初の遊郭です。

寫真の3階建ては緑町遊郭に移転寸前に新築された
2代目の「安楽亭」です。
広い空地に中に建てられたので人目を引きました。

富平町は遊郭が緑町に移転後に この建物付近から
発展していきました。

その後「第一楼」「菊福楼」「菊水楼」・・・などが
富平町の通称「地獄小路」を中心に次々特別
料理店(遊郭)が開業していきました。

同年11月には 全部で7軒の特別料理屋が
開業していました。
遊女は総数で280名になっていたようです。

写真は「永福楼」と女将

明治40年 釜山理事庁は風紀上の取締りを 強化するため 市街地から離れた山裾の場所に
遊郭を選定して そこの中だけの営業を
認めることになりました。

明治45年から移転先の 緑町遊郭として営業を始めたのです。


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