fSvjXcAa9J3OA
Home > 釜山の街角今昔 > 西区忠武洞(緑町)

釜山の遊郭の歴史 2

(緑町遊郭時代)

明治35年7月  富平町特別区に特別料理屋 (遊郭)
営業が領事館から許可が出ると次々 特別料理屋が増え、
遊女が釜山に渡って行きました。

現在の富平洞2街と3街の間の道が通称で地獄 小路と
呼ばれ歓楽街として繁盛していました。

( 遊女の画像は「硝子の羅針盤」から )


明治40年 釜山理事庁は風紀上の取締りを
強化するため 市街地(佐須土原:さすどはら)
から離れた山裾に遊郭を選定して そこの中だけ
営業を認めることになり,3年以内に移転するよう
命令を出しました。

残った建物は釜山居留民団が買い取り、
通常料理店や、旅館に転売することに
なりました。

買収価格で多くの問題が出たのは当然です。
3年の予定が5年かかりました。

明治45年1月 緑町遊郭が誕生しました。
(別名:櫻町遊郭)

15戸の特別料理屋が営業を始めました。

釜山の人口増加に合わせて遊郭も規模が
大きくなっていきました。

大正3年:1丁目19戸:2丁目15戸
昭和14年の統計も同数の楼があります。

写真は昭和2年の緑町遊郭
釜山日報(1927/4/14)

遊郭一覧(釜山日報1927/4/14)


昭和5年の釜山の職業別地図で見る
遊郭の配置

緑町1丁目は大きな郭(くるわ)で緑町
二丁目は小さな店が並んでいます。

店名を紹介するするための地図と下の
縮尺を合わせた住所表示地図と合わせて
みると理解できます。

昭和11年の釜山住所表示地図

緑町二丁目 中央の通り(昭和2年)

緑町二丁目 上の通り(昭和2年)

緑町二丁目 下の通り(昭和2年)

釜山日報の緑町遊郭特集記事で紹介
された遊女です。

郭ごとに源氏名が記され 多くの 傾国の美女
たちが競うように並んでいます。

全部の紹介もできますが・・・この頁の趣旨と
異なるので一部のみの公開になります。

大東亜戦争で米軍に敗戦した日本は占領軍の
米軍の命令で 朝鮮地域にいたすべての
日本人は着替えなどの手荷物だけを持って
残りすべての財産を置いて帰国するように
なりました。

日本人町としての釜山は消え、緑町遊郭も
当然  無くなりました。

現在の様子です。(2006/12撮影)

緑町の残った建物を利用して韓国人が売春宿を
始め、町名も緑町から「玩月洞(ウォンウォルドン)」と
代わり歓楽街となりました。

朝鮮戦争で避難民が押し寄せ釜山の人口が
戦前の10数倍になり、歓楽街も規模が大きく
なりました。

その後 いろいろあったようですが 途中経過は
省略いたします。

歓楽街のイメージを消すため 朝鮮の救国の
英雄として名高い「李舜臣」の号の「忠武洞」に
地名も代わりました。

緑町一丁目遊郭跡の散歩 


規模は小さくなりますが 牧島、草梁、古館にも遊郭がありました。

Home . 釜山旅行の基本情報 . 人物 . 歴史 . 乗り物 . 交通史 . 名所・旧跡 . 釜山の街角風景
. 釜山の街角今昔 . 街角今昔2 . 食べた物 . 昔の生活と文化