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釜山麟寸製造所

  
釜山麟寸製造所

明治の頃まで麟寸(マッチ)の輸入国だった
日本は大正時代になると輸出国として欧州の
麟寸工場製品とアジア市場を競うようになり
ました。

近代設備ではなく女工の器用さに依存した
製造だったので 小さな資本金で開業する
ことが出来たので中小の工場が次々生まれ
ました。

特に第一次世界大戦が始まり欧州の各国が
アジア市場まで手が回らないことで需要が
急増し各地に工場が乱立しました。
釜山麟寸製造所

釜山でも天神伊三が水晶町で双羊印の安全麟寸
製造を始めました。

釜山でシエアの高い兵庫清燧社の双鹿印のマッチを
意識して 羊(ひつじ)印を作ったようです。

釜山や朝鮮内だけではなく、世界に麟寸を輸出
したいとする意気込みを述べています。

第一次大戦が終わると需要が減ったばかりでは
無く、欧州各社が再度 アジア市場に進出して
競争になり麟寸市場も不景気になりました。

合併・再編が進み釜山麟寸製造所も統計から
消えてしまいます。

麟寸は明治の頃は高価でした。1箱が大麦の一石
と同じ値段ですが、大正時代になると値下がり
して1箱の値段が蜜柑(ミカン)2個と同じ値段
になり、昭和になるとミカン1個の値段と同じに
なっています。

工業製品は生産性が高まると下がる法則は変化が
ありません。

参照
釜山の物価(明治39年)
釜山の物価(大正13年)
釜山の物価(昭和9年)

その後 牧島瀛仙町で函製造業者の吹田浅七が
箱製造の1部門として宣伝用麟寸の製造を始め
昭和10年(1935)釜山麟寸株式会社になりました。


朝鮮で最大の麟寸工場は1917年に仁川で製造を始めた 朝鮮麟寸株式会社です。
米国との戦争に負けた日本が朝鮮を離れると韓国人が 各地で麟寸製造を始め数百の工場ができたと聞いて います。

現在は一般家庭での使用は無くなり、喫茶店・食堂の 販促用の製造工場だけが残っているようです。

韓国ではマッチのことは「성냥」と呼びます。これは漢字語の「석뉴황(石硫黄)からの音が訛ったものです。
このことから赤麟を使った安全マッチの時代ではなく毒性の高い黄麟を使ったマッチの時代に出来た 言葉
だろうと思われます。


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