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三和護謨株式会社
釜山にあった三和護謨は朝鮮最大のゴム製品の
工場でした。資本金85万5千円で従業員3千名釜山にあった多くのゴム工場を統制するため
総督府と三井物産が斡旋して「 丸大ゴム」を
中核した下記の工場合併をしました。釜山の「丸大ゴム」「 栗田ゴム」「釜山ゴム」「日榮」「一成ゴム」
大邱の「ホマレゴム」「大一ゴム」
江景の「丸大大分工場」
裡里の「朝日ゴム」、光州の「朝日ゴム」
木浦の「東亜ゴム」、 京城の「輝松ゴム」
昭和9年9月に14箇所の工場が合併して三和護謨株式会社を設立しました。
写真提供:武安さま
年間ゴム靴生産1千万足でタイヤなど多くの
ゴム製品を生産し、奉天、新京、哈爾濱
安東、吉林に出張所を設置し大陸も
販売エリアにいれ拡大しました。特約店数は朝鮮・満州一帯で2千を越え利益を
あげていました。社長 米倉清三郎 、専務 木下貞光
常務 栗田嘉一、竹丸巌壮
取締役 松世勝蔵、島野佐巾、金日守、金源喜、山本節民
監査役 中島新作、岩崎七太郎、林昌治、稲田昇治朗、宮島正秦
昭和14年(1939)3月 米倉清三郎の夫人
(春子)が亡くなりました。三和護謨本社前を通る葬儀車と見送る人々
写真はご子孫の中川さま提供南鮮の工場が合併して、それぞれの工場は
大邱は再生ゴム、江景は婦人・子供靴、本社は
一般靴と製造品目を特化して靴の生産に力を
入れていました。
葬儀の写真と同じ方向から見た現在の様子。
(2007/02撮影)戦時体制になった釜山では三和護謨にも
釜山中学などから勤労奉仕作業に生徒が
かりだ される事になりました。昭和20年(1945)日本の敗戦によって 三和
護謨の総資産は凍結され、進駐した GHQの
日本人総帰国命令で全ての財産を 残して
手荷物だけで帰国することになりました。
昭和21年(1946)2月大阪で昌永工業を引き継いで「三和」の社名でゴム靴を作り始めました。
まもなく自転車のチューブゴムの事業に転換をし、靴は作らなくなりました。昭和38年(1963)労使紛争の為工場を閉鎖、不動産業になり社名も「三和興産」に
変わり京都で盛業中です。米倉清三郎氏は昭和50年(1975)没米軍に接収された三和護謨工場は1948年
韓国独立で米国政庁から慶尚南道庁に
管理が引継 ぎされました。朝鮮戦争が始まると効率的な生産を目的と
李承晩大統領は 三和護謨大邱営業所の
運営をしていた「金禮俊」に払下げを命じました。金氏は政治が好きで数回落選しています。
会社の資金を注ぎこんで経営難になりました。1954年 金智泰、鄭鎮哲、李宅周、朴在哲らが
経営に参加し資本金を500万ウオンに増資して
三和ゴム株式会社にしました。
1958年 金智泰が三和ゴム株式会社を買収して
社長に就任。1982年没
三和護謨の最大の工場のあった場所です。
現在は高層アパートが建っています。(2006/12撮影)
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