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朝鮮紡織株式会社

 
朝鮮紡織

写真は凡一洞の現代デパートの向かい側です。

平和都売市場と自由都売市場があって多くの
釜山商人が出入で賑わう街です。(都売=卸売)

この一帯はかつての多くの工員達が働いて
いた大きな工場地帯で、筆頭が朝鮮紡織
株式会社でした。

(2006/01撮影)
朝鮮紡織株式会社

右図は1968年12月に出た公売広告です。

朝鮮紡織株式会社と大韓製油株式会社と
周辺を合わせて8万坪の敷地を再開発し、
道路用地の3万2千坪を控除した残りの4万
8千坪を釜山市が公売したのです。

釜山の中心部にする計画で市庁舎や教育庁
主要機関をここに新築移転する予定でした。


朝鮮紡織株式会社

在りし日の朝鮮紡織の姿です。

6人の資本家が朝鮮の綿花を利用して紡績
業を興し鮮内で自給自足する事を考えました。

(馬越恭平、山本条太郎、山本悌次郎、
柵瀬軍之佐、野田卯太郎、和田豊治)

釜山の人達の雇用増大と社会貢献の信念から
大正6年11月に資本金500万円をもって朝鮮
紡織 株式会社を立ち上げました。

大正8年に釜山の凡一町に敷地を定め工場
建設を 始め、大正11年1月より操業を開始
しました。

翌年大正12年12月、不幸にして大火災にあって
工場の ほとんどを焼失しましたが 復興に努力し
大正14年7月 再度 操業開始しました。

朝鮮紡織株式会社

昭和11年の朝鮮紡織付近の地図です。

赤い線は路面電車の軌道です。

国鉄の引込み線が工場内まで入っている事や
子城台の大きさと比較して大規模工場の様子が
分かると思います。

昭和3年10月 新工場の運転をはじめました。

工場敷地は4万8千坪、工場及び付属建築物は54棟、
紡機械は39,376台、織機は1,132台が稼動していました。
原動力はスイス製の汽関及び発電機を使い、粗布細布、
晒細布、晒粗布を年間5万梱
綿糸を年間1万梱を生産していました。

昭和10年の役員
社長:山本条太郎、常務:原安三郎、
取締役:佐々木克己、齋藤吉十郎、小室利吉、松野鶴平
常任監査役:中村彦、監査役:松方正熊、相談役:韓相龍

株主(株数)
山本条太(3455), 山本操(3150), 丸山芳美(2810), 崔昌立(2450), 商業銀行(2120),
服部金太(2000), 山野秀一(1950), 山野一男(1670), 淺野太三(2050), 方奎煥(1180)
馬越恭平(1250), 原口庄次(1610), 迫間保太(1900), 竹内健(1207), 金相サ(1250)

満州国の営口紡績、東興紡績を合併させて、共同経営をはじめ染色工場や染料の
生産も始めました。順調に行くかと思われましたが・・・・

朝鮮紡織株式会社 敗戦の報を受け、日本人はすべて帰国することに
なり 工場や機械は韓国人に無償で与えられる
事になりました。

当初 従業員組合で引受けして運営したいとの案も
ありましたが これだけの工場を運営するには相当の
資本が必要なのと安定した雇用を確保する為に韓国
人資産家の金??に全てが与えられて紡績を再開
したのです。

朝鮮戦争で多くの避難民が釜山に集中し、安価な
労働力を武器に 業績を伸ばしました。

閉鎖した理由は調査中で不明ですが 釜山市は
工場跡地の再開発に1968年着手しました。
かつて数千人の女工が働いていた紡績工場の
痕跡は消滅しました。


朝鮮紡織は消滅しましたが 工場の周りには多くの食堂がありました。 名物がナクチポックンです。
この料理のことを釜山では「朝紡前」と称していたそうです。
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