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大邱薬令市

薬令市

大邱の薬令市は李朝孝宗9年(1658)に清に
献納するための物産を集める為 春秋の2回
王の命令で開く薬令市として始まりました。

大邱には監察使がいたので各地から集まった
漢方薬の優良なのを選択して王に献納し、余り を
相互に交換又は売買することとなったのです。

次第に規模が大きくなり慶尚北道だけではなく
全鮮、清国、日本からも薬剤が出品取引されて
各地からの商人が集まるので旅館や、飲食店など
多くの業種も繁盛するようになりました。

朝鮮の市場経済(朝鮮総督府)388頁:昭和4年発行
朝鮮時代

薬令市の場所は北門(洪北門)の内の西側に
客舎と呼ばれる祭礼所がありました。

千坪くらいの敷地があり、そこの広場で毎年
薬令市が開かれていました。

明治40年に大邱の城壁の撤去があり、 平行して
老朽化した客舎も撤去され ることになりました。

それ以後は現在の南城路で開かれるようになりました。

南城路の両脇は現在漢方薬の店や漢方医院が
並び独特の雰囲気があります。
薬令市

この写真付近に 昔の客舎がありました。

明治40年の撤去で付近一帯が再開発されて
大和町となり商店街になりました。

現在の地名は大安洞

昔は令により定められた1月程度の期間だけの
開市でしたが、日清戦争後 独立して清国に
献納の義務がなくなったので王令の市は消え
大邱薬業者組合主催の売買・交換の薬令市に
代わりました。

大正3年からは年1回冬季に開かれるように なり
ました。
薬令市

大正15年から全羅北道の全州と黄海道の開城で
秋季に薬令市が開かれるようになりました。
開城の高麗人参が大邱の薬令市の主要商品
だったことと、冬季開催の大邱薬令市は
秋季の市で先に買い物が終える客が増えて
大邱は客数減少で打撃を受けました。

昭和3年には忠清北道の堤川市も薬令市を
開始して西側の市場押さえにかかります。
薬令市の期間は毎日、妓生の歌舞などイベントで
観光だけでも来る価値があると宣伝しています。

大邱は打開する為、大型の常設薬令市を新たに
造り 移転することが議題になりました。
場所は 西門市場が湖沼を埋めてできた広い敷地の
西南市場に移転した跡地が候補地でした。

広い倉庫や市場がそのまま利用できるので有望と
する人と場所にこだわる人の議論はまとまらず、
移転の話は消えて、現状のまま南城路で薬令市を
継続することになりました。
薬令市

南北の民族同士の争う朝鮮戦争が始まって
約300年ていど 続いた大邱薬令市は中止に
なり、戦争が終わっても売上の下がった薬令
市は復活 する事はできまんせんでした。

現在は常設の店舗が、この南城路に並んで
いて 日を定めた特別の市はありません。
通りに来るといつでも漢方薬の香りが漂って
います。

毎年5月初旬に薬令市祭りがあって昔の様子の
再現を して観光スポットになっているようです。


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