fSvjXcAa9J3OA Home >  街角今昔 2 > 漢方薬と市場_大邱 > 企業

達城館

達城館

この広告は「大邱案内」(明治38年発行)に
掲載されたものです。

大邱邑城東門外の「達城館」は大邱邑城
北門外の「 やまと」と並んで大邱の有名な
旅館・料亭としていろいろな書物に 会合や
宴会を したと店の名前が出てきます。

店主の岡田二郎は明治36年京釜鐵道工事に関係
釜山・密陽方面で工事に従事していました。
明治37年 大邱で旅人宿と料理店を東城里で開業
同年 日本人居留民会議員に選出される。

明治43年3月 城内の朝鮮家屋が火事になったので
消防団長だった岡田は消火にあたり、団員の空腹を
しのぐ為炊き出しを命じたとき雇人の不始末で火事
になったが岡田以下消防団員は城内にいたので
大邱で最大の料亭だった最初の達城館は そのまま
全焼してしまいました。

店主は岡田二郎(岡山出身)
達城館

不幸にめげない岡田はすぐ達城館を再建築し
写真のように125坪総2階の2代目達城館を造り
大広間100畳、別室40畳、階下に数10室あって
大邱最大の建物ができました。

大邱停車場が出来ると今まで 南門から西門
市場までが繁華街でしたが 駅付近にしだいに
人が集まるようになり達城館も 繁盛すると
思われましたが無理な新築が悪かったのか?
資金がショートして手放すことになり 晩年は
精神に障害もでて悲惨だったと「大邱物語」に
記されています。
達城館

2枚は明治44年発行の「大邱一斑」に載った
達城館と達城館から見た大邱市街です。

東本町(現在の校洞)の東城路よりにあった
達城館から尋常小学校覆審法院の位置
関係で 達城館の場所がほぼ特定できます。

達城館は岡田の手から離れ芳仙閣と名前
を換え、敗戦で大邱から日本人が引き上げる
まで残ってたようですが・・・

その後の事情はこれからの調査です。
東城路

現在の様子です。
路地の奥の右手にクリーム色の建物が見えます。
この付近に 達城館(芳仙閣)があったようです。

撮影時にはまだ達城館の位置が分からないので
路地の奥まで入らないで、入口から適当に撮った
スナップです。

この路地も次回の大邱訪問の時に詳細に記録
して置きたいと思っています。

戦前の左の店は「大橋書店」、右の店は
「時計屋」だったようです。

(2007/11撮影)


旅館「達城館」の名前は大邱邑城北門内に「客舎」と呼ばれた 大邱監察府の施設で 祭礼所と宿泊設備の
ある建物の名前から取ったものです。客舎の広場で昔の薬令市は開かれていました。
Home . 交通史 . 戦前の絵葉書 . 昔の生活と文化 . 人物 . 釜山の街角今昔 .