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慶尚監営公園

(監察府/監察道/道庁)
慶尚監営公園

この図は慶尚監営公園の絵地図です。
大邱の朝鮮時代は四方を城壁で囲まれて いる
城郭都市でした。

中央に監督庁として王から派遣された観察使の
役所(監察府)がありました。

観察使は司法・行政の全権を持った地方の
権力者で監察使になると子孫は8代までも
働かないで生活する財産が作れたと言われて
います。

観察使の下に官妓や下女が数百人いたそうです。
慶尚監営公園

監察府は統監府が出来ると監察道と改称され
司法や徴税権がなくなり、行政権限のみに
縮小されました。

日韓併合になると監察道は廃止になり、
行政機関として 道庁が置かれました。

大邱は慶尚北道の中心であることは
続いていました。

昔の城壁の形は明治時代の地図を参考に
してください。

写真は「大邱一斑」(明治44年発行)から
現在は「慶尚監営公園」となって市民の憩いの場になっています。
慶尚監営公園
全体を見るため3枚の写真を合成しました。(2007/11撮影)
慶尚監営公園

監察府の正門が写真の「観風楼」です。
正門は南側にあって30歩南に石碑が立って
いて 「節度使以下下馬」の表示がありました。

正門以外に東西に通用門が各1つ、北側に
裏門が2つありました。

正門のあった場所は上の写真の右側歩道
付近 と思われます。

道路拡張工事のため、この観風楼は達城
公園
に 移設されました。


慶尚監営公園

復元された監察府の正庁である
建物の 「宣化堂」です。

最初の写真が当時のものです。

(2008/02撮影)
慶尚監営公園

同じく復元された監察府の正庁の
建物の「澄清閣」です。

監察府の下に、中営(警察)、親軍南営(軍隊)、
都護府(郡庁)、電報司がありました。

(2008/02撮影)
慶尚監営公園

昔風の鐘堂が作られています。

奥の方の建物が「宣化堂」です。

(2007/11撮影)
慶尚監営公園

全部で3つの建物が作られています。

後ろに見えるのが「澄清閣」です。
復元した建物です。

(2007/11撮影)
慶尚監営公園

角のほうにキムチの壷が並んでいました。

昔のものかもしれません。 (2007/11撮影)
慶尚監営公園

奥の方には 歴代監察使の碑が並べて
立っています。(2007/11撮影)

持っている歴代慶尚北道監察使のリストに
ある人が載っていないので少し???となり
ました。

韓国の歴史で不都合と思われる事は載せない
ことがあるのです。
慶尚監営公園

碑の説明文を見ると
慶尚道監察使及び大邱判官善政碑
となっています。

善政では無いと製作者に判断された
人の名前は監察使として大邱に赴任
した事実を見せたく無いのでしょう。

明治41年に最後の慶尚北道監察使として
平安道監察使だった「朴重陽」が大邱に
赴任したと記録にあるのですが石碑には
載っていないので、疑問が出ました。


石碑のリストに載っていない大邱監察使の全部を赴任した順番で紹介しておきます。
李容直、趙秉鎬、李重夏、李禝絃、李憲永、張承遠、李祐寅、李允用、申秦休、 尹憲、
李容翊、李根浩、韓鎮昌、李忠求、朴重陽

明治38年の日露戦争の最中に慶尚北道監察使として赴任した「李容翊」は彼は親露派で
大邱在住の日本人や日本人が雇用した朝鮮人を迫害したのでいろいろな悪口が記録に
残っています。

前任の「李允用」、前々任の「張承遠」も載っていません。当時は彼らもカチガチの
親露派でしたが日露戦争後は親日派になったので載っていないのでしょう。

「張承遠」は大正6年(1917)独立軍の軍資金の寄付を断ったと言う理由でテロリストに
射殺されています。


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