この図は朝鮮時代の大邱の絵地図です。
大邱の朝鮮時代は四方を城壁で囲まれて いる
城郭都市でした。城壁は高さが6mくらいで、約1mおきに銃眼が
あって切石を積んでできていました。中央に監督庁として王から派遣された観察使の
役所がありました。
一部復元され慶尚監営公園となっています。明治40年に大邱観察使だった「 朴重陽」が
大邱の発展の為に城壁を撤去して道路に
しました。
城壁に囲まれた大邱の街は6箇所の門があり
そこから出入りしてしていました。
夜の8時ごろに門を頑丈な扉で閉ざすと朝まで
だれも出入できませんでした。大きな門が4箇所 北門「拱北門」、西門「達西門」
東門「鎮東門」、南門「嶺南門」です。
別に小さな門が2箇所(西小門、東小門)在りました。正確な城壁の形は明治時代の地図を参考に
してください。写真は「鮮南発展史」(大正2年発行)から
「君主南面ス」という言葉あり城郭都市は
南側が表になることが多いのです。大邱も正門は南門で「嶺南門」と称されて
いて「嶺南第一關」の大額がありました。城壁の撤去作業の中で、この南門だけは
文化財として記念に残したと記録にあり
ますが、現在 残っていません。写真は「鮮南発展史」(大正2年発行)から
南門が何時撤去されたか不明で調査中です。
写真のマンホールのある付近に当時 南門が
あったのです。観光案内を調べると「忘憂公園」内に復元した
南門が作られたようです。
次回 写真を撮って見比べて見たいものです。(2007/11撮影)
城壁の4隅には防御の為に望楼があり
東将台、南将台、北将台、望京台(西)の
名称でした。写真は南将台と思われます。
望京台は城壁の撤去時、記念に 達城公園に
観風楼と共に移築されました。終戦までは望京台があったようですが
現在はありません。韓国人が撤去した
のでしょう。写真は韓国名所寫真帖の大邱市内全景図より一部を拡大抽出したものです。
問題は何故このように都市を城壁で厳重に囲う必要があったかです。
労力と時間をかけて遊びで作ったのではありません。高麗史によると倭寇が頻発したので都市を防御する必要になったとあります。
疑問点は 倭寇の主力であったとされる対馬に継続的に 内陸の大邱まで攻め込むという
そのような武力があったのでしょうか?釜山や馬山・蔚山などは勢力範囲ですから対馬の可能性は高いかも知れませんが江華島や
開城付近まで全土に渡り、数月ごとに倭寇が出没しているは 対馬とはとても思えません。海賊・山賊・匪賊その他 不明なものはすべて倭寇だと称しているのでしょうw
ヒネタ見方をすると在庫調整や税の回避で倭寇に奪われたとしてるのでは?とも思えます。