fSvjXcAa9J3OA
Home >  街角今昔 2 > 漢方薬と市場_大邱 > 官庁

歩兵八十聯隊 

(第二十師團)
大邱に 兵を置いたのは明治27年 東学党の乱から日清戦争になった時 兵站司令部と 軍用
通信所を置いたことが最初です。司令部の場所は達城公園
戦争が終わると部隊は電信守備の憲兵隊の一部を残して全て帰還しました。

明治37年7月大邱守備隊として中村軍曹の引率の小隊が大邱に来たのが2回目です。
同年9月中隊になり、日高大尉が赴任

明治40年9月第十二旅団の司令部が大邱に置かれ、歩兵十四聯隊(小倉)が大邱に駐屯しました。
明治42年 歩兵十四聯隊が帰国、大邱守備隊として臨時韓国派遣隊が新設されました。

日韓協約締結後の各地で起きた暴動を鎮圧するためです。

明治43年の日韓併合で臨時韓国派遣隊は臨時朝鮮派遣隊と名称変更
歩兵八十聯隊

大正5年4月の臨時朝鮮派遣軍歩兵
第二聯隊として、宮中で 軍旗が親授
されました。

昭和6年 満州事変のため奉天方面に
歩兵砲兵の主力と通信班の一部が出勤
昭和7年5月 凱旋

米国との開戦によって歩兵八十聯隊は
第二十師団の隷下として昭和17年に
東部ニューギニア方面に派遣されました。

そこで優勢な米軍及び豪州軍との戦闘で
苦戦し、数千名の派遣の中で生還者
100名弱と聞きます。
キャンプ・ヘンリー

現在の様子です。

昭和20年 米国に敗れた日本人は総帰国
命令を受け、 残った施設は名称がキャンプ・
ヘンリーに 代わり米軍基地となりました。

「キャンプ・ヘンリー」は朝鮮戦争の時の
基地として米軍による大邱防衛線の
拠点でした。
現在も重要な基地となっています。

旧住所:大邱府大鳳町
新住所:大邱広域市南区梨泉洞

戦前の大鳳町付近地図(GoogleMap)


Home . 交通史 . 戦前の絵葉書 . 昔の生活と文化 . 人物 . 釜山の街角今昔 .