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磯村牧場

 
釜山の市街地の西方を眺めると天馬山と峨媚山にさえぎられています。
山の手前は釜山広域市西区、山の向こう側は釜山広域市沙下区になります。

釜山の観光名所である国際市場(新昌洞)にあるユナの屋上から 撮りました。

天馬山と峨媚山の谷間、で台地の広がる場所は 戦前の地名は釜山府谷町です。
現在は釜山広域市西区峨媚洞となっています。

そこに磯村牧場がありました。現在は峨嵋市場と周辺住宅になっています。

磯村牧場

(2007/07撮影)

昭和13年の釜山府谷町付近の地図、赤丸で磯村牧場を示す。

現在は建物が密集した市街地ですが、戦前は乳牛が草を食べる広い牧場でした。

住所:釜山府谷町2丁目95番地から99番地、(画像は新釜山大鑑より)

磯村牧場は 文久元年金沢市野田寺町に生まれた磯村武経が作った。
昭和8年 自宅の庭で撮った家族写真。羽織袴で座っているのが磯村武経

磯村武経は明治25年6月に外務省巡査として渡鮮、
明治33年7月に釜山浦富平町四丁目で牧場を始める。
(画像:在韓実業家名鑑:日韓商業興信所:明治40年8月発行)

明治43年に釜山谷町2丁目に移転し、
釜山最古の牧場として有名になった。

明治44年釜山居留民団議員に推され、
釜山商工会議所議員にも2回当選した。


磯村武経には5人の娘の後に生まれた長男の磯村一がいた。ところが磯村一は
東京に進学し、早稲田大学工科を卒業したあと そのまま東京で就職してしまった。

長女、次女も東京に嫁入りし、三女の薫が磯村牧場を見ていた

大阪出身で大正2年2月に渡鮮、釜山で米穀商を営んでいた高原英二は
磯村武経の三女薫と結婚し、昭和17年5月より終戦まで磯村牧場(釜山乳業畜産有限会社)の
経営を 営んだ。

昭和11年 同じ庭で撮った高原英二の家族写真、赤子を抱いて座っているのが三女の薫

高原英二と薫は5人の男子に恵まれた。
長男 哲夫 T12-S19/1/14戦死 駆逐艦漣一等航海士
次男 宏 T14/1/3-H21/1/13
3男  稔 S3/2/6-S25/5/1 海軍兵学校で終戦 23歳病死
4男  武彦  S10/7/29-
5男  昭良  S13/10/14-S21-5/22

昭和12年/1/7磯村武経没、葬儀は近くの総泉寺本堂で行われた。


昭和20年9月 米国に敗戦した日本は朝鮮からの総帰国命令を受けて引揚げることになり、
磯村牧場は米軍に接収された。
高原英二は様子見でいち早く福岡に渡ったが、釜山に帰ることができず、子供たちは9月に福岡に渡った。
妻の薫は翌年2月まで釜山に在留した。

戦後 駆逐艦 漣の会に出席した、高原英二と妻の薫、長男哲夫の遺影

高原英二は昭和60年8月23日没、高原薫は昭和59年7月30日没

写真は峨嵋市場、1951年 朝鮮戦争が始まると多くの難民が釜山に押し寄せ空地にバラックを建てて住んだ
磯村牧場跡にも多くの人が住み着いた。韓国政府は住んでいる難民たちにそれぞれに所有権を認めたので密集した
市街地になっている。



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