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峨媚山共同墓地

 
峨媚山共同墓地

釜山の市街地の西方をさえぎる天馬山と
峨媚山の谷間は釜山府谷町でした。

一番奥に釜山府の共同墓地が明治38年
選定され、翌年の明治39年に建設され
ました。

それまでは伏兵山の中腹の3万坪が共同
墓地
でした。明治39年から理事庁令をもって
移転をはじめ明治40年移転完了しました。

(昭和11年発行の釜山地図)
峨媚山共同墓地

峨媚山から見た共同墓地の様子です。

斜面全体に墓碑が乱立している様子が
分かります。

奥の方に龍頭山の周辺に市街地が広がって
います。

画像中央付近にある第六小学校が見える
ので 大正8年以後の写真です。
龍尾山が確認できるので昭和8年以前です。


峨媚山共同墓地

昔の地図と方位をあわせた
Googleマップです。

閑静な墓地はすべて住宅の
密集する地域に変わっています。

谷間にあった川はコンクリートで
フタをして道路になり、共同墓地の
痕跡は消えています。
峨媚洞

峨媚山共同墓地だった場所が住宅になった
のは朝鮮戦争で多くの難民が釜山に集まった
ことから始まります。

平地はすぐにいっぱいになり次から来た難民の
住む場所は山の斜面や墓地など人の住まない
場所 しか残って居なかったのです。

墓地の痕跡は残っていると聞いたので路地裏を
散歩してみました。

(2009/12撮影)
峨媚洞

掲示板の下にコンクリートで固めた墓石が
見えます。

朝鮮戦争で各地から着の身着のまま釜山に
逃げてきた避難民達が建材としてここで使
えるのは墓石だけでした。

現在はコンクリートで見えないようになって
いる所が多いですが、土台や斜面の階段
など いろいろ使われたと聞いています。

(2009/12撮影)
峨媚洞

墓石を拡大して撮影しました。

春野さんに知り合いはいませんが合掌して
帰ってきました。

(2009/12撮影)

続編 共同墓地の痕跡2
墓地の近くの教会が墓の遺骨を保管したこともあったようです。
1962年 峨嵋洞にあった火葬場の移転が堂甘洞に移転したとき、他にも散財していた墓地の位牌や
過去帳などを集め、 供養碑を建立したと聞いています。
その後、堂甘洞も再開発で再度移転を余儀なくされ、現在の金井区の公園内の 日本人墓地に移転して、
全部で1528柱が安置されているようです。
2度の移転の中で峨嵋洞の墓地の手書きの名簿が紛失、墓碑は峨嵋洞に放置されたままということです。


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