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辨天座 (寄席・映画・芝居)


石川県小松市にお住いの山本様から多数の絵葉書画像をいただきました。
ご先祖が大正時代に釜山など朝鮮半島で財を築き絵葉書などを購入して故郷へ 帰り、企業を創設したようです。

すべての絵葉書を整理するのは年月がかかるようで、今後も釜山の画像が出てくる可能性があることを期待し、
北陸方面に感謝の念を送っています。

大正時代の初め頃(1912?)に釜山の本町一丁目の大通りに 寄席と活動映画兼用と思われる建物がありました。

左側の旗のある建物が「辨天座」(弁天座:べんてんざ)です。旧漢字なので読みと 新漢字を併記します。

辨天座

看板の拡大をご覧ください。当時は左から右に書くのが普通でした。
横書きという概念ではなく、縦書きで一文字の3行になります。
辨天座

大正元年発行の釜山要覧に載っている劇場及び寄席一覧です。
「辨天座」の名前は見ていましたが 具体的な場所や建物様子、営業状態などは不明のままでした。
分かったのは大正元年に寄席の分類で釜山府本町に「辨天座」が存在していたというだけです。
辨天座

この絵葉書の発見でいろいろな事が分かります。


1:山の稜線:撮影場所の特定と時代特定

後ろの山の稜線を見て左が伏兵山、右が巌光山です。
これによって南濱町一丁目付近の本町エリアから北方向を撮っていることがわかり、「辨天座」の
住所が五丁目まである広い本町の中で本町一丁目で、道路の左側というかなり範囲が狭まります。

昭和になると鎮海要塞司令部の検閲で山の稜線を出すことが禁止されました。
画像から釜山の様子や場所が特定されるのを軍事的観点から好ましくないと考えたからです。

戦前の昭和時代の絵葉書や新聞、雑誌、卒業アルバム等の写真に背景の山の稜線は映っていません。
山の稜線も時代特定の目安で、これであれば明治・.大正時代の印刷物ということが分かります。

2:建物の構造
写真から木造2階建て瓦屋根の建築であることが分かります。
寄席の出し物や出演者を幟(のぼり)と立て看板、旗などで人目を引くようです。
3.道幅が広い:撮影年の特定
南濱町の水産会社から辨天町に向かう大通りは明治44年(1911)までは半分くらいの道幅でした。
大正元年(1912)道路沿いの建物を撤去し、裏の道路を合わせた広い道路(2級道路)に なりました。

辨天座
(1918年の本町一丁目地図>

広くなった理由は 道路の延長に釜山大橋(渡津橋)の 建設が予定され牧島(影島)に繋がる予定が
あったからかもしれません。

広い道路に面しているので撮影年は大正元年(1912)以後になります。
当時の絵葉書は写真週刊誌の役割を持って行って新しい道路、店や建物の新築・イベント等があると
発行されていました。
それで新しい道路の両側の店の中で目立つ「辨天座」の出し物に合わせて発行したと思われます。

その後の「辨天座」

数年後には釜山府の統計資料の映画館・劇場・寄席項目から「辨天座」の名前が消え、短期間の営業なので
所有者や営業資料がありません。
大正4年12月26日南濱町一丁目で大火災がありました。
「辨天座」は南濱町一丁目に隣接していたので、火災での延焼による廃業かもしれません。

撮影年は 大正4年(1915)以内でしょう。1912年から1915年の3年の間になります。

昭和6年(1931)から始まったには跳開式橋梁で「渡津橋」に向かう道路拡張と新たに路面電車の通る大きな道路
(昭和通:現在の九徳大路)の新設のため、交差点付近の本町一丁目の建物はすべて撤去されました。
以後「辨天座」のあった場所の現況は道路です。

現在の影島大橋から北方向を見たロッテデパート光復店付近(右側の高層建築)の道路です。
(2013/12撮影)
正面の奥に戦前の絵葉書と同じ姿の稜線を持つ巌光山が見えます。
現在の道路の左側車線付近に「辨天座」がありました。
影島大橋からロッテデパート

現況:釜山広域市中區東光洞1街の道路

(2019/12/24記述)



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