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釜山府本町二丁目を観察しよう-2
(住所表示変更を中心に) 。

明治時代の釜山港本町二丁目と昭和時代の釜山府本町二丁目の住所変更を見て見よう。

明治のころの釜山港本町二丁目は朝鮮政府の管轄下にあって 日本人専管居留地であり、
昭和時代の釜山府本町二丁目は韓国併合で日本政府に統合された状態である。

日本人専管居留地の行政は住民の代表の自治である釜山居留民団役所が管理し、併合後の
大正3年4月1日釜山居留民団役所は行政事務を釜山府廳に 引継ぎ解散した。

本町の概要は下記である。

本町一丁目には税関や商船会社、倉庫などが並び、
本町二丁目には第一銀行、大貿易会社や富豪の住宅
本町三丁目には中小問屋や諸会社が多く並んでいた。

今回は釜山の本町二丁目の住所変動の歴史を眺める事にしたい。

昭和11年版住所地図の本町二丁目を緑で囲んだ。

昭和二年七月十一日付 慶尚南道告示六十四号による町名改定があり、本町二丁目に常盤町9-1,9-2,10,11,12番地と
琴平町1、2番地(警察署敷地)が加算され、面積が(龍頭山東側斜面)拡大した。

緑で塗った場所が旧本町二丁目

赤で塗った場所が旧琴平町で、琴平町一丁目1番地が本町二丁目9番地、琴平町2番地がから本町二丁目10番地

黄色に塗った場所が旧常磐町で常磐町9-1番地が本町二丁目11番地、常磐町9-2番地が本町二丁目17番地、
常磐町10番地が本町二丁目18番地、常磐町11番地が本町二丁目19番地、常磐町12番地が本町二丁目20番地、

いよいよ 本題に入る。
昭和11年版地図の本町二丁目に赤で明治から大正3年までの番地を赤で記した。

大正4年以後と以前では反対側から番地が振られていることに驚く!

明治時代の住所の根拠は下記の日本統治時代の閉鎖登記簿である。


表題部に大正4年に釜山港本町二丁目13番地を釜山府本町二丁目7番地に変更と記されている。


表題部に大正7年に釜山港本町二丁目12番地を釜山府本町二丁目8番地に変更と記されている。



表題部に昭和2年に釜山港琴平町一丁目1番地を釜山府本町二丁目9番地に変更と記されている。

登記簿は公開資料であり、日本統治時代の閉鎖登記簿も申請すれば出してくれることが多い。
日本統治時代の閉鎖資料を探す面倒さを嫌がる担当者は「無い」と言って受け付けない事も多いが
根気よく通えば可能であるw

登記簿は現在の住所で検索するので、合筆や分筆で日本統治時代の閉鎖登記簿に繋がっている番地の
枝番号が特定できないのが通常で、すべての枝番号の先を調べ、韓国時代の閉鎖登記簿を除外する作業が
必要なので枝番号をいくつか見ただけで「無い」と答える多忙な担当者の気持ちもわかる。

住所特定作業は忍耐と申請手数料の積み重ねである。

何故 大正4年に住所を振り直すのか?
たいていの書類には住所が必要であり番地変動は事務上の混乱を招く。
正確な事情は不明であるが、行政事務を釜山居留民団役所から釜山府に移行の際、権力を示す為と推測している。

朝鮮半島に日本人の居留民団は下記の12カ所の都市にあった。
釜山、京城、仁川、鎮南浦、群山、平壌、木浦、元山、馬山、大邱、龍山、新義州
推測が正しければ12カ所すべてで住所の反転があるかもしれない。

住所の反転は釜山だけの特殊事情ではなく京城でも同じことが見えるのでその他の都市でも明治時代の住所と
昭和時代住所が反対に振られている可能性が高い。
明治から大正時代の住所を見て昭和時代の住所地図で場所特定作業をするとミスが多発するので注意して欲しい。

貧乏暇なしである小生は他の地方都市まで登記簿を入手するには時間も懐具合も寂しい。
余裕のある方々に地方都市の調査をお願いしたい、そしてご指導を頂きたい。


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