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第百二国立銀行釜山支店
対馬の巌原に本店があった第百二国立銀行(明治12年開業)は対馬藩(巌原藩に改称)の
武士だった士族が出資して設立された士族銀行です。鎖国の間も、朝鮮との交流は継続していました。対馬藩だけが従事していた日韓貿易の特権で
得た語学や交渉のノウハウを廃藩置県後も生かすことを対馬藩の人達は模索していました。外交権がすべて外務省の直轄になり対馬が外された後も経験を生かすため 商人となり朝鮮の
各地の居留地に渡りました。彼らの経済活動を支える銀行が第百二国立銀行(頭取:宇和淳一郎)でした。
開業資金は士族に石高に応じて支給された債権を長崎の第十八国立銀行に 額面の7割で売り、
8万円を作り、資本金にしました。十八銀行は朝鮮に出店したいと思っていましたが第一銀行との協約で進出できないので
百二銀行と利益を折半することで資金提供を行い朝鮮の金融市場に入りました。百二銀行は開業当初から釜山出張所があり、明治15年釜山支店に昇格しました。
元山にも支店を設置する意向で 平田直達店(個人)に出店させて 第百二国立銀行の業務を
委託させていました。明治22年 元山で穀物の対日輸出を禁止する防穀令事件が 起こりました。
日本商人の損失はそのまま第百二国立銀行の損失であり、外交問題となって日本政府は朝鮮国政府に
損害賠償請求をしましたが、資本金の少ない同行はその間に資金がシュートして打撃を受けました。頼みの綱の釜山支店も防穀令の損害を受けた米商人が多かった ので滞貨金を生み銀行運営が
できなくなりました。ずさんな貸付で20万円を越える損失を出た
として釜山支店長の貝津繁太郎に2万円の
賠償を要求し宇和頭取は不信任になりました。
代議士の川本達が整理に当たりました。大蔵省の指導で 長崎の大手銀行 である
第十八銀行が損金を負担して事態収拾に
あたることになり、
明治22年に買収、明治34年清算終了して、
第百二国立銀行の名前は消えました。本店:長崎県管下第三十二大区四小区厳原大手橋町五拾四番地
釜山支店:朝鮮国釜山浦琴平町一丁目2番地
元山支店:朝鮮国元山日本人居留地方2区2番
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