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日蓮宗妙覚寺
トルゴレ食堂
光復路から国際市場に 入る道で「ヤング通り」と
呼ばれ ハングルの看板が入口にかかっています。両側の繁盛している BCファッション通りと
アリラン通りに 挟まれているのに ヤング通りは
少し寂しい通りです。トタン塀に囲まれた場所は戦前の電話局です。
数年前 空地になってそのままになっています。(2008/05撮影)
視点を右の移動してトタン塀の反対側の道です。
道の名前は「情報通信通」この道の突当りに日蓮宗妙覚寺がありました。
明治12年 釜山の法華経信者の小集団ができて、
布教師がいないを困っていました。
明治14年5月 坂井平三郎という者が代表して
長崎本蓮寺に詣り、布教師の派遣を請いました。(2008/06撮影)
朝の開店前なので人のいない通りです。
突当りが小さく見えます。その時 中本山行院の住職「渡邊日運」が
九州巡錫の途中でした。請われると老躯を
もとせず、明治14年7月釜山に渡り伝道に
努めたのです。信徒が増え、明治24年11月 京都本山妙覚寺の
別院となり、明治40年5月 統監府令第45号に
基き日蓮宗妙覚寺となりました。敷地194坪 建物伽藍 58坪
(2007/07撮影)
現在の様子です。
伽藍はありませんが 建物はかなり古い
日本家屋なので寺の一部が残っていると
思われます。(2007/07撮影)
現在は食堂になっています。
屋号は「トルゴレ」
豆腐料理で有名です。旧住所:釜山府西町二丁目12
現住所:釜山広域市中區新昌洞2街12(2005/05撮影)
昭和5年の職業別地図に載った釜山の
日蓮宗 妙覚寺です。大正6年から高佐顕照が住職として信徒の
尊敬を集めていました。昭和元年ごろ婿養子として、後継者に迎えた
高佐貫長は横浜で映画に出会い、信徒開拓に
最適なメディアであることを確信していました。釜山に来ると高佐貫長は有志を集め映画制作
会社「朝鮮キネマ」を設立しました。
映画は莫大な製作費用がかかります。
ヒットすれば資金の利益がでますが、そうでないと
赤字です。資本金の少ない朝鮮シネマは数年で倒産し、
高佐貫長は離婚して釜山を去ります。彼が鍛えた「羅雲奎」はその後、京城に移動
主演、監督としていろいろな作品を残しました。写真は「羅雲奎」
昭和20年9月 米国に敗戦した日本は朝鮮からの
総帰国命令を米軍から受けて、すべてを残して
手荷物だけで引揚げることになりました。
遺骨も持ち帰る事ができませんでした。
それで妙覚寺墓地の遺骨は 釜山日本人世話人会に
よって分骨され、昭和21年10月 会長 鏡一以が帰国
時に 遺骨を日本に 持ち帰ることになりました。
福岡市博多区にある聖福寺に 祭壇を造り安置
されました。ご先祖様の霊に参拝は聖福寺まで事前にご連絡
してからお出かけ下さい。写真は分骨記録帖、聖福寺所蔵
(2010/06撮影)
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