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釜山府辨天町(べんてんちょう)二丁目を観察しよう。

釜山府辨天町の歴史 総論で全体の様子や大まかな歴史の流れを述べた。

各論として丁目ごとの解説になり、ここでは弁天町一丁目を観察したい。

日本統治時代の昭和11年年の地図の赤色の部分が弁天町一丁目の最終形態になる。
辨天町一丁目=赤  光復洞1街
辨天町二丁目=緑  光復洞2街
辨天町三丁目=紫  光復洞3街

明治36年の地図の辨天町二丁目を赤で着色した。
青の線は昭和11年の辨天町二丁目である。

赤い色の辨天町二丁目の上(北)には琴平町があったが昭和2年の改定で辨天町一丁目に編入された。
赤い色の辨天町二丁目の下(南)は幸町一丁目があり、左(西)は辨天町3丁目であった。
赤い色の辨天町に丁目の右(東)は辨天町一丁目に隣接していた。

大正5年の地図に辨天町二丁目を赤で記した。
明治42年の改定で辨天町三丁目が辨天町二丁目になり、(同時に西山下町が辨天町三丁目に町名が代わった)

前に述べたように南側にあった幸町の一部が辨天町二丁目にが編入されたことが分かる。

この地図は大坂十文字屋が大正5年に発行した物だが辨天町一丁目を二丁目と誤植しているし
辨天町三丁目にも辨天町二丁目と記し、辨天町二丁目が二つあるように記している。 辨天町二丁目には辨天町一丁目と記している。
大正7年にも発行しているが誤植は直っていない;;釜山歴史を学ぶ人たちを混乱させる地図であるw

昭和時代の辨天町二丁目が最終形態であり、最初の地図を参考にして欲しい。
釜山の繁華街の中心であった辨天町二丁目の付近をご覧ください。
電車が止まっている場所は「思案橋前停留所」


同じ角度で撮った旧「思案橋前」の現在の様子(2014/5撮影)。現在の道路名は「光復路」

1945年 WW2の敗戦で 日本人は朝鮮半島からすべて引揚、米国が朝鮮半島の北緯38度の南半分を占領、ソ連は北半分を占領した。
1948年 米国は韓国の独立を認め、ソ連は北朝鮮の独立を認めた。
1949年 釜山府は釜山市になり、町名も変わり辨天町二丁目は光復洞2街になった。
1950年 北朝鮮は祖国統一を目指して韓国に南進、 朝鮮戦争が始まった。
1953年 米国と北朝鮮は休戦協定署名、韓国は署名拒否。
1963年 釜山市は韓国政府直轄の釜山直轄市に名称が代わった。

釜山直轄市時代の地図に光復洞2街を赤で記した。(旧辨天町二丁目+辨天町三丁目)(行政洞?)

1991年 朝鮮半島の南である韓国と北朝鮮が国連に同時加盟
1995年 釜山直轄市は廃止なり、釜山廣域市になった

2007年 韓国は洞名(町名)を廃止して道路名に数字を付ける住所に変わった。洞(町)が無くなると境界もない。
日本人の朝鮮半島統治の拠点の一つとして栄えた釜山府辨天町二丁目は歴史の中だけで存在しているように見える。

韓国には郵便が届く現住所と、法定洞住所と呼ばれる不動産登記の住所があり、行政が管理する行政洞住所と合わせて
三種類の住所が混在している。

郵便用の現住所は道路を挟んで番号を振っている欧米では普通の方式であり、日本式との互換性は無い
法定洞と行政洞は日本式の町名を韓国式の洞名に変えただけで同じ事が多いが異なる場合がある。
法定洞に釜山廣域市中区光復洞2街と光復洞3街が別々に存在するので、釜山直轄市時代の地図は行政洞を記した物と思わる。

辨天町二丁目は光復洞2街と名称を変え法定洞の中に残っている。韓国が不動産登記住所を郵便用の現住所に代えたら
完全に消えると思うが・・・韓国内の土地・建物の住所をすべて変えるには膨大な事務処理と経費が必要になると思う。
日本統治時代の残滓を消したいと考える気持ちは分かるが・・・w


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