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朝鮮物産共進会.8 
(水利組合模型展示)
朝鮮物産共進会

美術館の後ろの陳列エリアは少し変わった
展示がありました。 (会場の全体図

朝鮮総督府はお祭りではない真面目な
展示とこれを評していました。
そして金賞を与えた事でもこれに注目して
欲しかったことが分かる総督府の推薦
展示物なのです。

朝鮮の人口の8割を占める農家の生活向上の
ためには換金作物である米の増産が急務と
総督府は考えていました。増産には作付け
面積を増し安定した水利が得られる事が大事
なポイントです。
朝鮮従来式灌漑

朝鮮には耕作可能な土地は多かったのですが灌漑施設が旧式の為に多くの土地が荒地として 無駄に放置されていました。(写真:朝鮮従来式灌漑)

使われていた土地も 水利施設と呼べるのは皆無、あってもメンテが行われていないため 荒廃した施設が多かったのです。

天気次第で雨水の量によって収穫が増減し数年ごとの豊作と飢饉はあたりまえになっていました。


朝鮮物産共進会大正水利組合

大正水利組合の貯水池の写真です。

大正3年に平安北道の龍川平野に農業改良
事業として始まりました。

テンターゲート式と呼ばれる12億立方尺を
貯水する農業用水ダムで耕地が6016町歩から
11351町歩に倍増し旱魃も克服したのです。

このダムと増える予定の耕地の模型がありました。
ダムは共進会開催中はまだ未完成で、建設中です。
朝鮮物産共進会臨益水利組合

臨益水利組合は明治42年に全羅北道で設立
されました。朝鮮で最初の水利組合なのです。

総督府は理事長の藤井貫太郎を共進会で
表彰して水利組合が全鮮各地で設立され、
農業振興に繋がる事を応援したのです。

大正5年に排水不良で問題なった新聞記事
朝鮮総督府は明治42年から大正7年まで補助金を出して1527件の農業用ダムと410件の 水路を建設し、大正8年以後は各道の地方費に移して補助を続けました。

このように水利事業がが成功して生産が倍増し、品質も向上したので、移出米の増大となり 昭和8年以後は米穀統制と称する規制をする問題になるまで生産が向上しました。


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